備中一宮、吉備津神社を訪問しました。
吉備津神社は、大吉備津彦命を主祭神とし、その后である百田弓矢比売命をはじめとする一族をお祀りしています。
神社の入口にある岩は矢置岩と呼ばれています。
これは、大吉備津彦命が温羅(うら)と戦った際、この岩の上に矢を置いたという故事に由来するものです。

神門への階段を上り、拝殿で参拝しました。
正面の額には『平賊安民』と記されています。「賊を平らげ、民を安んずる」という意味で、大和朝廷に従わず暴れていたとされる温羅を退治した大吉備津彦命にふさわしい言葉だと感じました。

吉備津神社の特徴的な点は、拝殿と本殿が一体となり、二つの屋根が大きな屋根で結合されている構造です。これは「吉備津造」と呼ばれる独自の建築様式で、現在の社殿は室町時代の応永32年(1425年)に再建されたものです。
柔らかな曲線を描く檜皮葺の屋根が美しい。

吉備津神社の本殿内部もまた特殊な構造を持つようです。
後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』には、「一品聖霊吉備津宮、新宮本宮内の宮、隼人崎、北や南の神客人、艮御崎(うしとらみさき)は恐ろしや」と記されています。
本殿内の外陣の東北隅に位置する艮御崎には、吉備津彦命に退治された温羅がまつられていると伝えられています。
吉備津神社の全長約400メートルにも及ぶ回廊の途中には、鳴釜神事が行われる御釜殿があります。

鳴釜神事の起源には、次のような伝説が残されています。
吉備津彦命に討たれ、首を刎ねられた温羅のドクロが、なおも唸り声を上げ続けました。
ある夜、温羅が吉備津彦命の夢に現れ、「わが妻である阿曽郷の娘阿曽媛に釜殿の釜を炊かせよ。吉兆であれば豊かに鳴り響き、凶兆であれば荒々しく鳴るだろう。命は世を捨てて霊神と現われ給え。私は一の使者となって四民に賞罰を加えよう」と告げました。
吉備津彦命がそのお告げに従うと、唸り声は止んだ。
神事が行われていない時間帯には御釜殿を見学できるとのことで、私も拝観することができました。薄暗い御釜殿には御釜があり、その下では赤く火が燃えていました。
金曜日を除く毎日、神事のために火が焚かれているそうです。
見学していると、ご高齢のご夫婦が入ってこられました。
神事を行うそうです。
特別な日だけでなく、日常的に神事が執り行われているのでした。
江戸時代の作家・上田秋成の『雨月物語』には、鳴釜神事を題材とした物語があり、当時から吉備津神社の鳴釜神事が広く知られていたことが伺えます。
現代においてもこの神事が連綿と続けられていることに、感心しました。

温羅が告げた阿曽郷は、温羅の居城と伝えられる鬼ノ城の麓に位置する町です。阿曽では古くから砂鉄が採れ、「たたら製鉄」が盛んに行われていました。江戸時代には鋳物作りが盛んだったそうです。御釜神事に仕える女性は阿曽女(あぞめ)と呼ばれ、阿曽郷の女性が務め、御釜の補修や交換は阿曽の鋳物師の役目だったそうです。
阿曽の町には、鋳物で作られた灯籠が建っていました。

吉備津神社のご祭神である大吉備津彦命は、温羅を討伐し吉備を平定した後、吉備の中山の麓に茅葺きの宮を建てて住み、281歳で亡くなり、その山頂に葬られたという伝説があります。吉備津神社の背後にそびえる吉備の中山の頂上には中山茶臼山古墳があり、吉備津神社では御陵と呼んでいます。
吉備津神社は、主祭神は大吉備津彦命である一方で、鳴釜神事や艮御崎など、温羅との深い関わりを持つ興味深い神社だと感じました。