岡山市の吉備の中山のふもとにはご祭神を大吉備津彦命とする神社が二つあります。
吉備津神社と吉備津彦神社です。
吉備津神社は吉備の中山の西側に、吉備津彦神社は東側に位置しています。そして、吉備津神社が備中一宮であるのに対して吉備津彦神社は備前一宮であり、それぞれが所属する国が異なっています。
これは吉備の中山を二分するように備前と備中の国境があったためです。
もともと吉備国は、兵庫県の西部、現在の美作を含む岡山県、さらに広島県の東部にまたがる大きな国でした。しかし、持統天皇3年(689)に備前国、備中国、備後国の3つに分割され、さらに和銅6年(713)に備前国から美作国が分離されました。

この結果、備前および備中に一宮として大吉備津彦命をお祀りする神社が設けられました。また、備後にも吉備津神社があります(福山市)。
吉備津彦神社は、松の木が生えた参道の両側に池があるからでしょうか、広々とした開放的な雰囲気を感じます。

夏至の日には、正面鳥居から昇る朝日が神殿の御鏡に差し込むと言われています。このため、吉備津彦神社は「朝日の宮」とも呼ばれているそうです。

吉備津彦神社の社殿は、独特な配置が特徴です。吉備津彦神社の「吉備津造り」とは異なり、本殿、渡殿、釣殿、祭文殿、拝殿が一直線に並んでいます。この社殿は、元禄10年(1697)に備前岡山藩主であった池田綱政によって造営されました。
社殿は昭和5年(1930)の火災で焼失しましたが、昭和11年(1936)に再建されました。

吉備津彦神社でひときわ目を引くのは「安政の大石灯籠」です。高さが11メートルもある石灯籠で、見上げるほどの高さです。
神社の説明板には、地元の民衆によって建てられたことが記されています。
文政十三年から安政四年(1830~1857)にかけて地元有志が発起人となり、天下泰平・国家安全・万民豊楽・五穀豊穣などを念願し、備前一円と浅口郡の合計1670余人から5676両の寄付が寄せられ、安政六年(1859)に完成した。
藩主のような上流階級だけではなく、幅広い層から信仰を受けていたことが伺えます。

神社の脇の方から吉備の中山に登ってみました。
すると、小さな祠があります。吉備津彦命に退治されたとされる温羅をお祀りする温羅神社です。
温羅は鬼として語られることもありますが、吉備の国に文化をもたらしたとの伝承もあります。吉備津彦神社の説明によると、「吉備の国に様々な文化をもたらし、『吉備の冠者』の名を吉備津彦命に献上したとされる温羅命の和やかな御魂をお祀りしています」とのことでした。温羅のプラスの面を評価しているということですね。

山道を登っていくと、山頂には吉備津彦神社の奥宮とされる磐座がありました。
大吉備津彦命はこの磐座で天神地祇に祈りを捧げてきたそうです。

すぐ近くには八大龍王をお祀りする龍神社もあります。古代では雨乞いの儀式が行われたと伝えられています。

山そのものが御神体とされる吉備の中山。中山山頂の磐座。
備前と備中のそれぞれの中山の麓に設けられた一宮。
吉備の人々はこの山におわす神様に祈りを捧げていたことがわかりました。

















