
東山区梅宮町、白川のほとりに明智光秀の首塚という小さな祠が残っています。
天正10年(1582)6月13日の山崎の戦いで敗れた光秀は、坂本城を目指して逃げる途中、農民に襲われ重傷を負い自害したとされています。
光秀の首は粟田口にさらされた後、塚が設けられました。この塚には光秀の首だけではなく、山崎の戦いの戦死者の約3000の首が葬られたと伝えられています。
3000もの首を入れた塚なので、大きな塚だったと思います。場所は蹴上のあたりと推定されています。
江戸時代になり、街が発展し、首塚の周りに人家が立ち並ぶようになりました。「首塚に触れるとたたりがある」と恐れられていたそうです。
明和8年(1771)、梅宮町に住んでいた明田利右衛門に、首塚を含む屋敷が譲渡されました。明智光秀の子孫は姓を変えて「明田」と名乗っていました。
明田利右衛門は譲渡された屋敷には住まず、首塚にあった石塔を梅宮町の自邸に移しました。
天保6年(1835)に堀文庫という人物が梅宮町の屋敷を手に入れ、光秀の250回忌の遠忌法要を営みました。その後も10年ごとに法要が行われ、首塚は観光名所のようになっていったようです。当時、浄瑠璃などの影響で、明智光秀は謀反人から正義のヒーローのようなイメージに変わっていたそうです。

明治維新となり、明治4年(1871)に京都府知事・槇村正直により、「首塚を撤去せよ」との命令が下され、首塚の建物は売却されてしまいます。しかし、明治14年(1881)、槇村が更迭され京都を去ると、槇村が出した命令も見直されます。
明治18年(1885)、首塚の跡地を発掘したときに見つかった人骨をおまつりし、現在地に光秀の塚が再建されました。
建物は小さいですが、花が飾られ大切にされていることがわかります。

祠の前にあるのは明治36年(1903)に歌舞伎役者・市川団蔵が建立した墓石で、光秀の戒名「長存寺殿明窓玄智大禅定門」が刻まれています。

それにしても、人骨が見つかったのは驚きですね。
京都では数多くの戦いが繰り広げられたため、掘れば骨が出てくる可能性があるのかもしれませんね。