鎌倉・明月院

あじさいの「明月院ブルー」で知られる明月院を訪れました。
鶴岡八幡宮から建長寺、そして明月院と約2キロの道のりですが、人の波が途絶えません。
6月の晴れの一日。みずみずしいこの季節の鎌倉は大人気でした。

公益社団法人鎌倉観光協会のホームページ「鎌倉観光公式ガイド」によると、明月院の創建は次のように説明されています。

1159(平治元)年、平治の乱で戦死した首藤(山ノ内)俊通の供養として息子の經俊が明月庵を建てたのがはじまりです。

「鎌倉観光公式ガイド」より

山内首藤俊通とその子の經俊(経俊)の二人は関東の武士です。
※山内首藤俊通(やまのうちすどうとしみち)
 前九年・後三年の役では源義家に従った。
 保元の乱、平治の乱では源義朝に従ったが、平治の乱で討ち死にした。
※山内首藤経俊(やまのうちすどうつねとし)
 父である俊通と兄の俊綱が平治の乱で戦死したため、家督を継いだ。
 頼朝が打倒平家の戦いを開始した「石橋山の戦い」では、頼朝に向けて矢を放った。
 その後は、頼朝に臣従する。

約百年後の1256(康元元)年、第5代執権北条時頼が出家のために最明寺を建立。最明寺は時頼没後に廃絶しましたが、その息子で第8代執権の時宗が最明寺跡に禅興寺を創建しました。

「鎌倉観光公式ガイド」より

北条時頼が出家したのは28歳のときです。「こんなに若いのに」と驚かされます。しかし、宮騒動や宝治合戦を乗り越え、権力を確立した時頼は、出家したあとも権力を握り続け、「得宗」政治を開始したのです。
時頼には、諸国を周り困窮した人々を助けたという「廻国伝説」や『鉢の木』に示される良き大将というイメージもあります。時頼の政治手腕は恐るべきものではないでしょうか。
明月院の入口の近くに北条時頼の墓所があります。

そして1380(康暦2・天授6)年、鎌倉公方の足利氏満から禅興寺中興の命を受けた関東管領・上杉憲方が寺院を拡大し、塔頭も建てました。この時、明月庵は明月院と改められました。
禅興寺は一時期、関東十刹の一位にまでなりましたが、明治初年に廃寺となり、筆頭の支院だった明月院だけが残りました。

「鎌倉観光公式ガイド」より

明月院以外の寺院は廃絶されたようですが、明月院は現在もその歴史をつないでいます。

「明月院ブルー」と言われるあじさいは大きく、青が鮮やかです。

初夏の陽の光を浴びて、参道の両側に咲いているあじさいがきれいです。

「悟りの間」に開けられた丸い窓から眺める緑の景色と、室内の色彩とのコントラスト。梁や柱の直線と窓の円形のアクセントが印象的で、とてもユニークな光景だと感じました。

この窓から見る景色は季節によって変化し、今この瞬間に集中するという禅の教えが込められています。また、見る人の心の状態によって景色の見え方や感じ方も変わることから、「悟りの間」と名付けられたそうです。

今回は、時間の関係で本堂の裏にある庭園を見ることができなかったので、次回は紅葉の頃に訪問し、秋の明月院を味わいたいと思います。