岡山市の吉備の中山は、ふもとに吉備津神社、吉備津彦神社が鎮座し、山頂には吉備津彦命が葬られているという茶臼山古墳がある、古代からの神聖な山です。
この山の中腹に藤原成親遺跡があります。
藤原成親は平安時代末期の貴族で、鳥羽上皇や後白河法皇といった権力者と近しい関係を持ち、出世をします。平重盛の義兄でもあり、官位は正二位、権大納言まで昇進しました。
しかし、平家打倒を謀議したという鹿ヶ谷の陰謀が発覚。藤原成親は備前国に配流となり、この地で殺されました(治承元年/1177年)。
藤原成親遺跡にはふもとの福田海(ふくでんかい)本部の境内から登っていくことができます。

福田海は、開祖の中山通幽(つうゆう)尊師が明治41年(1908)に開いた宗教団体です。
境内に鼻ぐり塚があります。全国の食肉解体場から送られてきた牛の鼻ぐり(鼻輪)を山のように積み上げ、人間のために奉仕して一生を終えた家畜の供養を行っています。

15分ほど歩くと藤原成親遺跡に到着します。
明治43年(1910)に福田海の中山通幽尊師が整備し、今の形になりました。
福田海は陰徳積善を掲げており、京都にある化野念仏寺の無縁仏の整備も行っているようです。

藤原成親は壮絶な最期を迎えました。
平家物語では次のように書かれています。
「酒に毒を入れてすすめたりけれども、かなはざりければ、岸の二丈ばかりありける下に、菱を植えて、上より突き落とし奉れば菱に貫かれて、失せたまひぬ」
酒に毒を入れて毒殺しようとしたが酒を飲まなかったので、二丈(約6メートル)の崖下に先の尖った菱を仕込み、上から突き落としたら、菱に刺し貫かれて死んだ。
大納言まで上り詰めた貴族が、このような殺され方をする。
藤原成親の非業の死は、貴族政治が衰退し、武士の時代が本格的に幕を開ける象徴的な事件のひとつといえるでしょう。