堀川北大路の交差点を少し南に下がったところに、紫式部の墓があります。

ここはもともと、雲林院の境内地だったと考えられています。
入口には、右に紫式部の名を刻んだ石碑、左に小野篁(おののたかむら)の碑が建っています。
中に入ると墓が2つ並んでいました。

左が紫式部の墓、右が小野篁の墓です。
『源氏物語』を著した紫式部は、寛弘3年(1009)から一条天皇の中宮である藤原彰子に女房として仕えたことがわかっていますが、本名や正確な生没年は不明です。
その紫式部の墓がここであるとされたのは、南北朝時代に成立したとされる『源氏物語』の注釈書『河海抄(かかいしょう)』に、「紫式部の墓は雲林院の塔頭である白毫院(びゃくごういん)の南にある小野篁(おののたかむら)の墓の西にある」と記されているためです。
このあたりの地名は「紫野」で、紫式部はこの付近で生まれ育ったとされています。
紫式部を偲んだ人々が墓を建てたのかもしれません。

紫式部の墓の隣りに祀られている小野篁は平安時代前期の公卿です。
優れた漢詩人でありながら武芸にも秀でた190センチ近い大男であったと伝えられています。昼は内裏で働き、夜はあの世で閻魔大王の補佐を務めたという伝説も残されています。

『源氏物語』という、人を惑わす物語を創作した紫式部が地獄に堕ちないよう、小野篁に閻魔大王と交渉してもらおうという願いから、彼の墓が築かれたという説もあります。
不謹慎かもしれませんが、楽しい発想だと思います。優しさを感じました。