大阪夕陽丘・藤原家隆の塚

鎌倉時代初期の歌人、藤原家隆の小さな塚が、四天王寺の西方にある愛染堂勝鬘院の近くに残されています。

藤原家隆は保元3年(1158)に生まれ、嘉禎3年 (1237) に亡くなっています。
家隆が生きた時代は、公家や貴族が支配した平安の世から、武士が支配する時代へと大きく歴史が動いた時代でした。
家隆の生涯と重なる主な歴史的出来事は以下のとおりです。

保元元年(1156):保元の乱(家隆誕生の2年前)
平治元年(1159):平治の乱(家隆2歳)
寿永4年(1185):平家滅亡(家隆28歳)
建久3年(1192):源頼朝が征夷大将軍に就任(家隆35歳)
承久3年(1221):承久の乱(家隆63歳)

家隆は保元の乱の直後に生まれ、その後、平家が「平家にあらずんば人にあらず」と言われるほど力をつけた時代に青年期を過ごしました。
その平家は滅亡し、鎌倉幕府が誕生して武家の政権が確立しました。

そして63歳のとき、 家隆と親交があった後鳥羽上皇は、鎌倉幕府に挑んだ承久の乱で敗れ、 隠岐の島に流されます。この戦いの結果、朝廷の力は弱くなり、幕府が皇位継承を管理し、西日本も支配するようになります。

このような状況下で、通常であれば鎌倉幕府への配慮から交際を控えるのが通例であったところ、家隆は隠岐に流された後鳥羽上皇と交際を続けました。
家隆はよほど後鳥羽上皇に敬愛を抱いていたものと思われます。

晩年、家隆は四天王寺の西に夕陽庵(せきようあん)を設け、日想観を行いました。
日想観は西方に沈んでいく夕陽を見つめ、極楽浄土を思い浮かべる修行です。
夕陽庵から西に広がる難波の海に沈む夕日を見て、何を思ったのでしょうか。

その思いを家隆は歌に詠みました。

契りあれば難波の里にやどりきて波の入日を拝みつるかな

現在、家隆の塚があるあたりの地名は夕陽丘と名付けられています。
この地名は、家隆が詠んだ「入日 (夕陽)」にちなんでいるとされています。