六波羅蜜寺

以前から訪れてみたいと思っていた六波羅蜜寺にお参りし、空也上人の像を拝見することができました。

空也上人は平安時代中期の延喜3年(903)に生まれ、踊り念仏の開祖とされていますが、その詳細は不明な点が多いようです。

六波羅蜜寺の創建にまつわる話として次の伝説が伝えられています。

天暦5年(951)疫病が流行した際、空也上人は十一面観世音菩薩像を車に乗せて町々をまわり、念仏を唱えながら、病に苦しむ人々に梅干しと結び昆布を入れた薬湯である皇服茶(おうぶくちゃ)を与えると、いつしか疫病は終息していきました。
後に、菩薩像を安置する御堂が建てられ、この御堂が六波羅蜜寺となりました。

空也上人は天禄3年(972)に遷化され、その5年後、弟子の中信が西光寺と称していた寺を六波羅蜜寺と改めました。

六波羅蜜とは大乗仏教において菩薩が行う6つの修行を指すそうです。

  • 布施(ふせ) 与えること
  • 持戒(じかい) ルールを守ること
  • 忍辱(にんにく) 困難に耐え忍ぶこと
  • 精進(しょうじん) 努力を続けること
  • 禅定(ぜんじょう) 心を落ち着かせ集中すること
  • 智慧(ちえ) 物事を客観的に見つめ、本質を理解すること

こうして創建された六波羅蜜寺ですが、平安時代の後期には平家の屋敷によって取り囲まれていました。平清盛の父である忠盛が、六波羅の地を平氏の拠点としたためです。

養和元年(1181)、平清盛が亡くなりました。
翌年には「養和の大飢饉」が発生しました。鴨長明の『方丈記』には、京都の町に四万二千三百人もの死者が出たと記されています。この飢饉は、源義仲を交えた源平の戦いに大きな影響を与えました。

左が平清盛供養塔

寿永4年(1185)に平家が滅亡すると、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれました。
そして、朝廷を監視する役割として、六波羅蜜寺の南に六波羅探題が設けられます。

六波羅蜜寺境内の平氏六波羅、六波羅探題跡碑

しかし、その六波羅探題も元弘3年(1333)、後醍醐天皇に味方した足利尊氏によって滅ぼされました。

このように、武士たちの拠点であった六波羅は滅亡を迎えましたが、空也上人を祖とする六波羅蜜寺は、現在までその歴史を伝え続けています。

六波羅蜜寺の境内にある「令和館」に、空也上人像は安置されています。

像は口を開け、前かがみの体勢で、今にも動き出しそうな躍動感に満ちています。
空也上人の口元には6体の小さな仏が取り付けられています。これは空也上人が唱える「南無阿弥陀仏」の名号の一文字一文字が、阿弥陀仏の姿になったという伝承に基づいています。
このような表現のアイデアを考えた当時の仏師の創造性には驚かされます。
この像は、運慶の四男である康勝の作とされています。

空也上人像の隣に安置されている平清盛の像もまた、見事な作品です。
経巻を手に持ちながらも、視線は経巻ではなく上方を向いています。
ふと、源氏との戦いを考えたのでしょうか。上目遣いの鋭い目には、平家を率いた人物としての迫力が感じられます。

また、運慶と子の湛慶の像も生き生きしています。親子でありながら、顔つきがあまり似ていないのが面白い点です。

これらの像は、いずれも鎌倉時代に慶派の仏師によって造られたものだそうです。まさに生きているかのように、写実的で、リアリズムに満ちています。
運慶を中心とした慶派の仏師が手掛けた像は、ミケランジェロより300年も早くリアリズムを追求した彫刻であり、まさに世界に誇れる日本の宝でしょう。