
三十三間堂を訪れました。たくさんの観光客でにぎわっていました。
堂内に並ぶ千体の千手観音像は圧巻です。これほどたくさんの仏像を造ったことに驚かされます。さらに、体内には摺仏(すりぼとけ)が収められていて、千体ではなく一万体の観音様だったそうです。

三十三間堂は後白河上皇が平清盛に命じ、上皇の住まいであった法住寺(三十三間堂の東に位置)内、長寛2年(1164)に建立されました。しかし、この時に建てられた建物は約80年後の建長元年(1249)に焼失(建長の大火)してしまいます。
現在の三十三間堂は、文永3年(1266)に再建されたものです。

堂内の仏像も鎌倉時代の再建時に造られたものが多いようです。
千体の千手観音のうち、建長の大火を免れたのは124体、鎌倉時代に造られた仏像が876体、そして室町時代に造られたのが1体とされています。
千手観音の手前には、風神雷神像や二十八部衆像が並び、これらも鎌倉時代に造られたと考えられています。
どの像も非常にリアルで、生き生きしています。神母女(じんもにょ)像は、「こんな顔をしたおばちゃんは実際にいる」と思わせます。
これらの仏像制作には、当時の主要な仏師たちが動員されたことがわかっています。
しかし、いくら一流の仏師といえども、これだけたくさんの像を作るのはたいへんだったでしょう。おそらく、一流の仏師たちには場所、道具、材料の調達など、制作を支える体制が整っていたのだと想像します。

三十三間堂では、「通し矢」が行われていました。本堂西側の長さ121メートルの軒下を、軒や天井に当てずに矢を放つ行事です。
121メートルの距離です。矢が描く放物線が大きかったら天井に当たってしまいます。
弓をよほど強く引いて、できる限り直線的に飛ばしたと思います。
通し矢が行われる柱には鉄のガードが取り付けられていました。通し矢で射られた矢によって傷つくのを防ぐために取付けられたと伝えられています。
堂内の拝観順路には「八千本の矢を射た」とか、すごい数の矢を射ったことを示す額が並んでいます。それだけの数の矢を射れば、真っすぐに飛ばずに柱や壁に突き刺さった矢もたくさんあったでしょう。

戦乱の多かった京都で、三十三間堂は文永3年(1266)の再建から750年以上もの間、当時の姿を今に伝えてくれています。堂内の素晴らしい仏像群とともに、このような貴重な宝をいつまでも残していく必要がありますね。

















