
京都の街なかにある六角堂こと頂法寺を訪問しました。
西国三十三所霊場の第十八番札所であり、いけばな発祥の地でもあります。
頂法寺は聖徳太子によって創建されたと伝えられています。
以下のような創建伝説が伝えられています。
敏達天皇13年 (584) 、淡路島に如意輪観音像が漂着した。この像は太子が前世で念持仏としていたものだった。
用明天皇2年(587)、物部守屋との戦いに勝った聖徳太子は四天王寺を建てるための材木を求めて京都を訪れた。
太子が身を清めるために池に入ろうとした際、念持仏の如意輪観音像をタラノキに置いた。
池から上がった太子が観音像を取ろうとしたところ、重くて持ち上げられなかった。
観音像が光を放ち「この地にとどまり、人々を救いたい」と太子に告げた。
太子のもとにやってきた老翁が告げた場所に、殿宇の材料となる禿杉(かむろすぎ)があった。
タラノキの6本の根の上に禿杉の柱を立てたので六角形の御堂ができ、六角堂と名付けた。そして、本朝伽藍の最頂であるので頂法寺と号し、池にちなんで池坊と名付け、同行していた小野妹子を寺主とした。
聖徳太子が六角形のお堂を創建し、小野妹子が寺主を務めたという話です。

山門をくぐって進んでいくと拝堂です。
真正面の拝堂は一般的なお堂の形をしていますが、横に回っていくと、拝堂の後ろの本堂は六角形の形をしています。

お隣のビルのエレベーターから見下ろすと、六角堂の形がよく分かるというので乗ってみました。
屋根はきれいな六角錐の形をしていました。この屋根は「六角宝形造(ろっかくほうぎょうづくり)」というものだそうです。

しかし、屋根全体を見ると、単純な六角形ではなく、拝堂の屋根が組み合わされて複雑な構造になっています。現在の本堂は明治10年(1877)に再建されたもので、このときに現在のような複雑な形になったようです。
しかし、聖徳太子の創建伝説にあるように、本堂は寺の創建時から六角形をしていたと考えられています。

本堂の裏には池があります。
この池こそが、太子が身を清めるために入った池と伝えられています。池に浮かぶ朱色のお堂は太子堂です。

境内にある大きなビルディングは華道の家元である池坊のもので、正面に立花モニュメントが飾られています。
これは三十二世池坊専好が寛永7年(1630)に立てた水仙一色の立花を再現したものです。
池坊専好は江戸時代初期に活躍した家元で、池坊の最も古い花形である立花(りっか)を完成させ、立花の中興の祖と称されています。

記録に残る、最古の家元は池坊専慶とされています。東福寺の禅僧・太極の『碧山日録』の寛正3年(1462) 2月25日の条に専慶が花をいけたことが記されているそうです。
池坊専慶の時代から550年以上にわたって、池坊は六角堂の住職を務め、華道を発展させてきました。
この池坊本部ビルには池坊中央研修学院京都校の教室やいけばな資料館が設けられ、いけばなの普及と発展が図られています。
大阪府南河内郡太子町に小野妹子の墓があり、池坊によって管理されているとありました。
そのときは、池坊と小野妹子の関係がわからなかったのですが、六角堂を訪れて謎が解けました。
六角堂の創建、いけばなの起こりや発展。そして池坊の長い歴史を感じることができました。


















