久能山東照宮にお参りしました。
ここは、徳川家康公をおまつりする、全国東照宮の「元祖」とも言える神社です。
久能山東照宮へのアクセス
- ふもとから1159段の石段を登る。
1159段なので 「いちいちごくろうさん」と呼ばれているそうです。 - 日本平(にほんたいら)からロープウェーを使う。
今回はロープウェーを使いました。

ロープウェーでは、ガイドの方の楽しいアナウンスを聞きながら、久能山駅に到着です。
家康公の隣に信長公と秀吉公?
駅を降りて進むと、正面に案内ボードが立っていました。
それには「主祭神は徳川家康公、配祭神に織田信長公と豊臣秀吉公」と書かれています。
主祭神が家康公なのは当然ですが、配祭神が信長公と秀吉公であることには、違和感を覚えました。
家康公にとって、二人は目の上のたんこぶ的な存在だったのでは、と感じたからです。
二人が祭神に加えられたのは明治以降ということだそうですが、「家康公がこの事実を知ったら何と思うだろうか?」と想像せずにいられませんでした。
境内の手形と遺言
そんなことを考えながら、石段を登って境内へと足を踏み入れました。

大きな楼門をくぐると、家康公の手形が置いてあります。
天正8年(1580)、家康公が37歳の時に採ったもののようです。
手を合わせてみましたが、それほど大きな手ではありません。家康公の身長が160センチほどだったという話もうなずけます。

家康公が亡くなったのは元和2年(1616)。次の遺言が残されました。
自分の死後・遺体を駿府郊外の久能山に埋葬し、
葬式は江戸の増上寺で行い、
位牌を岡崎の大樹寺に立て、
一周忌を過ぎたころに日光に小さな堂舎を建て神霊を勧請せよ。
海を見下ろす要衝の地
久能山の南には、海がすぐそこに広がっています。

東照宮ができる前は武田信玄が久能山城を築いていました。甲斐の武田信玄が、こんなに海の側まで進出していたとは思いもよりませんでした。
久能山は東西を分断できる重要な拠点です。家康公もその重要性を認識されていたからこそ、久能山に埋葬されることを望んだのではないかと思います。
権現造の社殿・神廟
それにしても、東照宮はキンキラして派手です。
社殿は元和3年(1617)に2代将軍・徳川秀忠公によって造営されたもので、権現造としては日本最古の建物です。

「完成してしまうと壊れるのみなので、不完全なところを残しておく」という考えから、軒下の葵の紋が逆さになっている『逆さ葵』の横を通ります。

さらに進むと徳川家康公のご遺体が納められた「神廟」が現れます。秀忠公の時代には祠でしたが、3代将軍・家光公によって宝塔が建立されました。
宝塔は家康公の遺命により、西向きに建てられています。
これは西国大名に睨みをきかすという意味でしょう。

また、奥の一角には「家康公愛馬の霊所」という家康公の愛馬を埋めた跡があります。主人に殉じて埋められたのだとしたら、少し哀れに感じます。

家康公の御遺訓(東照公御遺訓)
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
静岡駅など、至るところで上記の家康公御遺訓が掲げられていました。
しかし、この遺訓は偽書ではないかという疑いがあるようです。
真贋は別として、「いかにも家康公が残したにふさわしい言葉」であり、このような心構えを持てば、精神的にも強くなれる気がします。

















