信長公ゆかりの寺・円徳寺

名鉄岐阜駅から北へ200メートルほどのところに円徳寺というお寺があります。

円徳寺の歴史

寺の壁沿いの掲示板に円徳寺の歴史が簡潔にまとめられていました。

  • 源平の戦いの真っ最中の寿永2年(1183)に、法泉寺が創建される。
  • 第2世寂照が親鸞聖人に帰依し、浄土真宗に改宗。寺号が常泉坊に変わる。
  • 天文16年(1547)、織田信秀軍が「加納口の戦い」で斎藤道三に大敗。約5,000人が討ち死にし、織田塚が築かれる。
  • 永禄7年(1564)、織田信長が稲葉城に入城し、本陣の跡を寄進される。
  • 門前に楽市楽座が設けられる。
  • 関ヶ原の前哨戦である「岐阜城の戦い」で敗れた織田秀信(幼名・三法師。織田信長の孫)は常泉坊(円徳寺)で出家し、高野山に送られる。

波乱に満ちた歴史が刻まれています。

織田信長寄進の梵鐘

本堂の横には織田信長が寄進したと伝わる梵鐘がありました。

稲葉城に入城した信長は城下町の「井ノ口」という地名を、「岐阜」と改め、城の名も「岐阜城」と改めました。

織田塚

境内に残された織田塚です。

加納口の戦い
天文16年(1547)、織田信秀軍は井ノ口まで攻め込み、村々に火を放つ。
織田軍、午後4時頃に撤退を開始する。
兵が半分ほど引き上げたところで、斎藤道三軍が猛攻を仕掛ける。
撤退中に攻撃を受けた織田軍は防御態勢が整わず大混乱に陥り、死者約5,000人という大敗を喫する。

JR岐阜駅の南が加納なので、信秀軍は岐阜城のすぐそこまで攻めてきていたのですね。
この大敗により、武力による美濃攻略をあきらめた織田信秀は、織田信長と濃姫の政略結婚により斎藤道三と和睦することになったようです。

楽市楽座の制札

円徳寺には織田信長が発給した制札が伝えられています。これによると、岐阜の楽市楽座は信長以前から存在したようです。

ただし、「座」の特権を廃止して誰もが自由に商売できるようにし、市場税を免除したというところに信長の革新性があったようです。

こうした発想は、どこから生まれたのでしょうか。
若いころ、「うつけ」であったときの経験が活かされたのかもしれないですね。