新政府軍と彰義隊が戦った上野戦争のときの黒門が、南千住の円通寺にあると聞いたので、円通寺を訪問しました。

円通寺は日比谷線三ノ輪駅から徒歩5分のところにある曹洞宗のお寺です。
延暦十年(七九一)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、このあたりを小塚原とよぶようになったという。
境内の説明板より
黒門は境内の正面に位置していました。

その名の通り、黒い色をしています。
丸い弾痕が無数にあいています。
黒門は、元は上野の寛永寺の総門で、清水観音堂の南あたりにあったと考えられています。
上野戦争ではこの黒門をめぐって激しい戦闘が繰り広げられました。
無数の弾痕の跡を見ると、当時はすでに槍や刀ではなく銃撃戦が主流だったことがわかります。

戦いの後、彰義隊士の遺体は放置されていましたが、太政官の許可を得た円通寺の住職・竹田仏磨と寛永寺の御用商人・三河屋幸三郎が遺体を埋葬しました。
こうした経緯から、円通寺は旧幕府方の法要を執り行うことが許された、日本唯一の寺になりました。
黒門が寛永寺から円通寺に移設され、彰義隊士266名の遺骨が収められたほか、榎本武揚、大鳥圭介など旧幕府軍関係者の慰霊碑が並んでいます。

三河屋幸三郎が戊辰戦争で戦死した旧幕臣の戦死者を供養するために密かに建てていた「死節之墓」も円通寺に移設されています。

日本史上最大級の変革である明治維新。その影には幕府を応援し、殉じた人々の存在があったことを、改めて思い知らされました。


















