麒麟の城・小牧山城

小牧山城を訪問してきました。
標高86メートルの小牧山の頂上に、天守閣を模した資料館があります。

小牧山城は歴史の舞台に主なものとして2度登場します。
1度目は、織田信長による築城です(永禄6年・1563)。
2度目は、徳川家康が本陣を置いた小牧・長久手の戦いです(天正12年・1584年)。

織田信長時代

織田信長の築城にまつわるエピソードとして次の話が残されています。

永禄6年、信長は居城だった清州城から北東18キロメートル離れたところにある二宮山に城を移すと宣言した。二宮山は標高291メートルの山で、戦国時代の山城としてはふさわしいものだったが、家臣たちは不便な二宮山へ引っ越すのは不満だった。
すると、信長は二宮山への引っ越しをやめ、清須から北東11キロメートル離れた小牧山へ移ると宣言した。
二宮山より近くなり、さらに清須から小牧山へは川で資材を運べるという便利さもあり、家臣たちは喜んで小牧山へ移転した。

清州城は平地に建てられた城(平城)だったので、信長は他の戦国武将にならって山城を築きたかったのでしょうか。

ふもとの市役所側から、頂上の資料館まで大手道で上がっていくことができます。

150メートルほど、まっすぐな道が続き、頂上付近で大きく屈曲しています。
この特徴は安土城と同じだそうです。

このことは、小牧山城が防御機能だけを考えた城ではなく、信長の権威を見せる城でもあったとされています。
城の南側には計画的な城下町が広がっていたことがわかります。こうした先進的な町作りは、後の近世城郭につながるものでした。

信長が永禄10年(1567)に岐阜城(稲葉山城)を攻略し、岐阜に移ったため、小牧山城はわずか4年で使われなくなりました。
この辺りの割り切りというか、思い切りが信長のすごさではないかと思います。

小牧・長久手の戦い

天正12年(1584)に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の連合軍が戦う、小牧・長久手の戦いが起こりました。
このとき、徳川家康が本陣として使ったのが小牧山城です。家康は、使われていなかった小牧山城を大幅に改修しました。

強固な陣地となった小牧山城を攻めあぐねた秀吉軍は、別働隊を派遣して家康の本拠地三河を狙うも、長久手で敗れます。
戦いはこのあとも続き、最終的には羽柴秀吉と織田信雄が講和を結んで終結しました。

麒麟の城

小牧山城で記念のカードを買うと、信長が使っていた花押が印刷されていました。
小牧山時代と岐阜城に拠点を移したばかりの頃にかけて使われた花押です。

「麒麟」の「麟」の字をかたどったもので、麒麟は「世の中が平和になったときに現れる獣」であることから、平和への決意を示しているものと考えられています。
このことから、小牧山城は『麒麟の城』と呼ばれています。

小牧山に移ったとき、信長は32歳という若さでした。
小牧山への移転とともに花押を改めた信長。そこには信長の野望や希望が表れていることに間違いないでしょう。