河内長野市の観心寺を訪れました。 ここは楠木正成の首塚をはじめ多くの見どころがあり、多くの観光客で賑わっていました。

観心寺の由緒
- 大宝元年(701年)に役小角(えんのおづぬ)によって開かれ、当初は「雲心寺」と呼ばれていました。
- その後、弘仁6年(815年)に弘法大師空海が本尊・如意輪観音を彫刻し、「観心寺」と改められたと伝わります。
- 天長4年(827年)には、空海の弟子である実恵(道興大師)によって伽藍の造営が行われました。
国宝の金堂は室町時代前期に再建された大きな建物です。 和様に禅宗様、大仏様を組み合わせた「折衷様(せっちゅうよう)」の代表例とされ、内部には秘仏の如意輪観音菩薩坐像が安置されています。 この秘仏は毎年4月17日・18日の二日間のみ特別公開されます。

「建掛塔(たてかけのとう)」は変わった形をしています。名前に「堂」ではなく「塔」の字が入っているのは、もともと三重塔として建立が進められていた名残です。
発願した楠木正成が湊川で戦死したため、一重目を作った段階で中断されました。後に屋根が整えられ、現在のユニークな形になったそうです。

金堂から右手の方に進むと開山堂や道興大師の御廟、そして楠木正成の首塚があります。
開山堂には道興大師がお祀りされています。
現在の建物は江戸時代の正保3年(1646年)に再建されたものです。 開山堂の裏手には道興大師の御廟がありました。

観心寺を実質的に創建した道興大師が、観心寺の行く末を見守っているかのようです。

道興大師・実恵(786年?~承和14年/847年)
平安時代前期の真言宗の僧。
空海と同じ佐伯氏の出自で、空海の十大弟子の一人。高野山の開創に協力する。
大師が入滅されたのち、その徳を称え「日本第二の阿闍梨」と仰がれる。
承和14年11月、観心寺で入滅された。
そして、その隣に楠木正成の首塚があります。

湊川で自害した楠木正成の首級が、足利尊氏によって観心寺に送り届けられ、埋葬されたと伝わります。 観心寺は楠木氏の菩提寺であり、正成が8〜15歳までの間、観心寺で学問に励んだ場所でもあります。 首級を届けた足利尊氏は、敵味方の関係を超えて、正成のことを認めていたのではないでしょうか。

南北朝の戦いのさなか、金剛寺からの遷座により、観心寺は正平14年(1359年)12月から翌15年9月まで後村上天皇の行宮となりました。
山門をくぐってすぐのところがその跡地で、石碑が立っています。

その後、北朝方の攻撃を受けたことや北朝方内の内紛に乗じる形で、後村上天皇は住吉大社を行宮とし、正平23年/応安元年(1368年)に崩御されました。 そして、遺詔によって檜尾陵(ひのおのみささぎ)に葬られました。

後村上天皇の生涯は父後醍醐天皇の遺志を継いで、戦いに明け暮れた人生だったように思います。
南朝方と深い交わりがある観心寺で、南北朝時代のことを少しは知る機会になりました。



















