勝竜寺城

山崎の戦いで敗れた明智光秀が逃げ込んだのが、この勝竜寺城でした。光秀はその夜、密かに城を抜け出し、琵琶湖畔の坂本城を目指して逃げる途中、落ち武者狩りにあって波乱に満ちた生涯を閉じました。

この勝竜寺城は、元亀2年(1571年)に、織田信長の命を受けた細川藤孝が、当時存在した臨時の砦を戦国最先端の城へと大改修したものでした。

勝竜寺城

ボランティアの方に城を案内していただき、次のようなお話を聞きました。

「勝竜寺城は完全な平城で、規模も小さい。明智光秀はここに逃げ込んだものの、秀吉軍が攻めてきたら守り切れないと判断して出ていった。
しかし、当時としては画期的な石垣や瓦葺きの建物が造られており、その後の時代に標準となる城(近世城郭)の最初の例である。これは大いに自慢できると、学者の方から教えていただいた」

小さいながら、勝竜寺城にはいろいろな工夫が見られます。

城が攻められた場合、南門から攻めてくる敵に横から矢を浴びせる(横矢掛かり)ための西辺土塁は、かなりの高さがあります。ここからだと、堀を渡ろうとする敵を簡単に攻撃できそうです。

西辺土塁から南門を見る

北門は、敵の直進を阻む四角い空間「枡形虎口(ますがたこぐち)」が形成されていて、守りがしっかり考えられています。 
ボランティアの方によると「北門が最も当時のままに残っていて、勝竜寺城で一番自慢できる場所」だそうです。
ちなみに、光秀は夜陰に紛れてこの北門から脱出したと言われています。 

北門の「枡形虎口」

東側の堀は趣があってきれいです。

勝竜寺城は現在本丸だけが復元されていますが、当時は本丸から400mほど北にある神足(こうたり)神社のあたりまで取り込んだ、町全体を堀や土塁で囲む「惣構え(そうがまえ)」の城でした。
そこにも土塁が築かれ、横矢掛かり虎口が設けられていました。ただし、現在は草が生い茂っていて、地形はよくわかりませんでした。

神足神社前の横矢掛かり虎口

勝竜寺城は城郭としての先進性が特色の一つですが、やはり細川ガラシャ(明智玉)がいた城として知られています。城内には「細川忠興とガラシャの像」があり、撮影スポットになっていました。

細川忠興とガラシャの像

天正6年(1578年)、この城で忠興とガラシャは結婚しました。
しかし、天正10年(1582年)に本能寺の変が起き、山崎の戦いの後、ガラシャは謀反人の娘として幽閉されます。
ただし、本能寺の変のとき、ガラシャは勝竜寺城ではなく、宮津城にいました。また、キリスト教の洗礼を受けたのは、天正15年(1587年)のことなので、勝竜寺城にいた頃は、「ガラシャ」を名乗っていませんでした。

夫の細川忠興は、「光秀の娘をめとっている」という最大の危機を、光秀への協力を拒絶することで乗り越え 、その後も激動の戦国時代を生き抜きました。

細川家は勝竜寺城から丹後、豊前中津、小倉、そして肥後熊本へと移った後、熊本の地を治め続け明治維新を迎えます。勝竜寺城はまさに、名門・細川家の「始まりの城」でした。