河内長野市の金剛寺を訪問しました。 天気の良い一日で、色鮮やかな花と新緑に心が癒やされました。そして、南北朝の歴史を少し知ることができました。

金剛寺は行基によって創建され、空海が修行したと言い伝えられています。
平安時代末期に衰退しますが、阿観(あかん)上人により再興されます。後白河法皇の妹である八条女院の祈願所となり、女性の参拝を許したので「女人高野」と呼ばれました。
歴史のある金剛寺には数多くの文化財が残されています。
平安時代に創建されたという金堂では、国宝の三尊像を見ることができました。

金堂が色鮮やかなのは、平成22年(2010年)から9年の歳月をかけて行われた「平成の大修理」のおかげです。
河内長野の地が、楠木正成の本拠に近いということがありますが、金剛寺の大きな特徴は、南朝との深い結びつきではないでしょうか。
南北朝時代、正平9年 / 文和3年(1354年)から正平14年 / 延文4年(1359年)までの5年間、南朝の後村上天皇が金剛寺を行在所としました。


そして驚いたことに、この時期には北朝の三上皇(光厳上皇、光明上皇、崇光上皇)が金剛寺に幽閉されていました。つまり、南朝の天皇と北朝の上皇が同じ境内に滞在していたのです。
足利尊氏と直義、そして北朝と南朝の間で複雑かつ激しい戦いが繰り広げられます。三上皇が金剛寺に遷されたのも、この戦いのさなかの出来事でした。
- 延元元年 / 建武3年(1336年)、湊川で楠木正成自害。
- 延元4年 / 暦応2年(1339年)、後醍醐天皇崩御。後村上天皇が即位。
- 正平3年 / 貞和4年(1348年)、「四條畷の戦い」で楠木正行が戦死。
- 観応元年 / 正平5年(1350年)
足利尊氏と弟直義が戦う「観応の擾乱」が始まる。
光厳上皇による直義追討令が出され、直義は一時的に南朝方に降伏する。 - 観応2年 / 正平6年(1351年)
「光明寺合戦」および「内出浜の戦い」で直義方が勝利し、高師直が殺害される。
その後、尊氏と直義の戦いが再開する。
尊氏が南朝に降伏する(正平一統)。 - 正平7年(1352年)
尊氏に敗れた直義が鎌倉で死去。
南朝が京を占拠し、北朝の光厳、光明、崇光の三上皇を賀名生(あのう)へ移す。
後村上天皇は男山八幡宮に進出するが足利義詮に破れ、賀名生に還幸。
正平一統は破れ、北朝は年号を「文和」に改元。 - 正平9年 / 文和3年(1354年)
三上皇を金剛寺に遷すとともに、後村上天皇も金剛寺を行在所とする。 - 正平14年 / 延文4年(1359年)、後村上天皇観心寺に遷る。
- 正平23年 / 応安元年(1368年)
後村上天皇崩御し、長慶天皇が即位。
楠木正儀が北朝へ降伏。 - 正平24年 / 応安2年(1369年)、長慶天皇金剛寺に遷る。
- 文中2年 / 応安6年(1373年)、長慶天皇吉野へ還幸。
- 弘和3年 / 永徳3年(1383年)、長慶天皇が譲位し、後亀山天皇が即位。
- 元中9年 / 明徳3年(1392年)、後亀山天皇が京に帰還され、南北朝が統一。
上皇たちは奥殿に閉じ込められていたということですが、その奥殿の庭はたいへんきれいでした。

弘法大師の御影(みえい)を奉安する御影堂の隣に「観月亭」があります。立場は違えど、後村上天皇と三上皇はここで一緒に月見をされたのでしょうか。

金剛寺の三上皇ですが、正平10年 / 文和4年(1355年)に光明上皇が、正平12年 / 延文2年(1357年)には光厳・崇光上皇も京へ戻られました。
その後、 光明上皇は出家を遂げ、光厳上皇は禅の修行に邁進されました。光厳上皇は遺言により金剛寺に分骨させています。光厳上皇にとって金剛寺は、単なる幽閉先ではなかったのでしょう。

今回、金剛寺を訪問したおかげで、南北朝の歴史を知り、その時代を少し身近に感じることができました。



















