楠木正成・桜井の別れ

大阪府島本町にある「史跡桜井駅跡(史跡公園)」は、楠木正成の「桜井の別れ」の跡地として知られています。

延元元年(1336年)、九州から攻め上ってきた足利尊氏の大軍を迎え撃つため、湊川に向かった楠木正成が桜井の駅で息子の正行に会い、河内へ引き返させたというエピソードの舞台です。

公園にはいろいろなモニュメントが設置されています。

まず、「楠公父子の別れの石像」です。
楠木正成が11歳の息子・正行に教えを授けている様子が表現されています。
「こんな小さな子供だと、正成の息子といっても戦場では何も出来なかったのではないか」「足手まといになるので、河内へ戻らせたのか」と思ってしまいました。
この石像は平成16年(2004年)に有志の方から寄贈されたものだそうです。

楠公父子の別れの石像

次は「楠公父子訣別之所碑」です。題字は乃木希典大将の書で、大正2年(1913年)に建立されました。
乃木大将は明治天皇の崩御に際し、後を追って殉死されたので、大正2年に題字を書くことは出来ません。疑問に思って調べたところ、以下のことがわかりました。

明治末期に敷地を拡張・整備するプロジェクトのために「楠公父子訣児之處修興会」という組織が発足しました。この組織から依頼を受けた乃木大将は、生前に「楠公父子訣別之所」の文字を書き上げていました。しかし、日露戦争の影響などでプロジェクトの進行が遅れるなか、大正元年に乃木大将が殉死されます。
翌年の大正2年(1913年)にようやく献碑式典が行われたのです。

つまり、題字は確かに乃木大将が存命中に書かれたものでした。

楠公父子訣別之所碑

「明治天皇御製碑」には、明治31年(1898年)の陸軍大演習に行幸された際に詠まれた歌が記されています。
「子わかれの 松のしつくに 袖ぬれて 昔をしのふ さくらいのさと」
昭和6年(1931年)に建てられた碑で、東郷平八郎元帥の書です。

明治天皇御製碑

「忠義貫乾坤(ちゅうぎけんこんをつらぬく)碑」は、島本村内と近郊の有志150名によって、明治27年(1894年)に建てられました。

忠義貫乾坤碑

数ある碑の中で、最も古い歴史を持つのが明治9年(1876年)に建立された「楠公訣児之処碑」です。

楠公訣児之処碑

裏面には当時の駐日イギリス公使ハリー・パークスの英文が刻まれています。
楠木正成の忠義に感動したハリー・パークスの発案で建立されたのです。

ハリー・パークスの英文

A TRIBUTE BY A FOREIGNER
TO THE LOYALTY OF
“The Faithful Retainer”
KUSUNOKI MASASHIGE.
Who parted from his Son
MASATSURA
At this Spot, before the Battle of the
MINATOGAWA,  A.D.1336
HARRY S. PARKES.
British Minister to Japan.
November 1876.

西暦 1336年の湊川の戦いの前に、
この地で息子・正行と決別した
「忠臣」楠木正成の忠誠に対し、
一外国人としてたたえる。

駐日英国公使
ハリー・S・パークス
1876年11月

こうしてみると、公園内にある碑はすべて明治以降に建てられたものです。しかも最初の碑は、英国人ハリー・パークスによるものでした。
江戸から明治になって時代が変わったことを示しているようでした。