備中松山城を見た後、頼久寺(らいきゅうじ)にお参りしました。
小堀遠州の庭園は見事でした。また、頼久寺の名前の由来となった上野頼久と三村一族の墓が残されています。

頼久寺の沿革
本尊: 正観世音菩薩
宗派: 臨済宗永源寺派
山号: 天柱山
- 暦応2年(1339年):創建は不詳ですが、足利尊氏が諸国に設けた「安国寺」の一つとして再興されました。
- 永正年間(1504〜1521年):備中松山城城主・上野頼久(うえのよりひさ)により寺院が整備されました。これがのちに「頼久寺」と呼ばれる由来となります。
- 天正2〜3年(1574〜1575年):備中兵乱に巻き込まれて焼失。その後再建されました。
- 慶長5年(1600年):小堀正次が備中奉行に就任します。
正次の死後、家督を相続した小堀遠州(政一) が頼久寺の境内に美しい庭園を築きました。 - 昭和49年(1974年):遠州初期の傑作として高い評価を受け、庭園が国の名勝に指定されました。

頼久寺庭園
頼久寺庭園については次のように説明されています。
蓬莱式枯山水庭園で愛宕山を借景し、白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現した庭園である。
書院から眺めると、 ボリューム感がある植え込みが「青海波」です。また、手前にあるとがった石のあたりが「鶴島」、その右にある石組みが「亀島」です。

とてもすてきな庭です。
縁側に座って眺めていると、心が落ち着いていきました。
上野頼久と三村一族の墓
上野頼久公と備中兵乱で滅亡した三村一族のお墓は本堂の右奥にあります。

左から上野頼久公、三村家親公(元親公の父)、三村元親公の墓が並んでいます。右側にある小さな石塔が、元親公のわずか8歳の子、勝法師丸の墓です。
備中兵乱
- 天文21年(1552年):尼子晴久が備中国の守護に任ぜられます。
多くの国衆が尼子氏に属する中、三村家親は毛利氏と結び、尼子方国衆と戦い、備中松山城城主となりました。 - 永禄9年(1566年):三村家親が宇喜多直家の刺客に暗殺されます。
- 永禄10年(1567年):父の後を継いだ元親と宇喜多直家が戦った明善寺合戦は、直家の勝利に終わります。その後も三村・毛利連合と宇喜多の戦いは続きます。
- 元亀3年(1572年):同盟相手だった毛利が宿敵宇喜多と和睦します。
- 天正2年(1574年):毛利への不信感を募らせた三村元親は、毛利氏から離反し、織田信長と結びます。
ここから毛利対三村の戦い(備中兵乱)が始まりました。 - 天正3年(1575年):ついに備中松山城が落城。三村元親は自刃し、8歳の息子勝法師丸も助命はかなわず、斬首されました。
頼久寺から少し東の方にある「元親池」のほとりに「三村元親公」の碑が立っています。この碑は江戸時代の文化6年(1806年)に建立されたものです。

大国である毛利と、謀略の天才である宇喜多。その二大勢力の狭間で翻弄され、最期は滅亡の道をたどった三村氏。
昨日の味方が今日の敵という流れに、戦国時代の厳しさを感じました。



















