岡山県高梁市を流れる高梁川沿いに山中鹿之介の墓があります。
山中鹿之介は上月城の戦いに敗れた後、この地で非業の死を遂げました。

上月城の戦い
天正六年(1578年)4月、毛利輝元が率いる三万の大軍が、尼子勝久、山中鹿之介ら三千の兵が守る上月城を包囲しました。
羽柴秀吉が救援に向かい、織田信長からも嫡男・信忠、荒木村重らの軍勢が送られましたが、上月城を救うことはできませんでした。
この状況から、織田信長は三木攻めに集中することを決め、秀吉も撤退します。
天正六年7月、孤立した尼子勝久は毛利氏に降伏し、自害。
山中鹿之介は捕らえられ、備中松山城へ護送される途中、高梁川の「阿井の渡し」で討ち取られました。
現在その地に建つ碑は、正徳3年(1713年)、松山藩士・前田時棟と足軽・佐々木軍六によって建立されました。
前田時棟は京都出身の医師・儒学者で、備中松山藩・石川氏に召し抱えられていました。佐々木軍六は実際に工事を指揮する役目を負っていたようです。
山中鹿之介の胴墓
ところで、この碑から約1.5kmのところに山中鹿之介の「胴墓」があります。
阿井の渡しで討ち取られた山中鹿之介の首は、備中松山城の毛利輝元のもとへ送られ、首のない遺体は殺害現場に残されていました。それを哀れに思った観泉寺の珊牛(さんぎゅう)和尚が、寺に運び込んで埋葬しました。
その後、明治20年頃に古代の石棺から首のない遺体が発見され、明治35年(1902年)、胴墓が建立されました。

遺体が石棺の中に入れられて、それが300年の時を経て発見されるとはドラマチックですね。
山中鹿之介の首塚
一方、山中鹿之介の「首塚」は広島県福山市の鞆の浦(とものうら)に建てられています。
毛利輝元の首実検の後、鹿之介の首は備後・鞆の浦にいた足利義昭のもとへ送られました。
足利義昭は京都から追放されたものの、征夷大将軍の地位を剥奪されたわけではなく、鞆の浦に御所を構えていました。
義昭にとって織田方に味方した山中鹿之介は敵であり、首実検をする価値があったようです。

尼子氏再興を夢見て戦い続けた山中鹿之介。
高梁川の河原で命を落としたあと、 首と胴の塚が建てられ、それぞれに物語が残されているのは、山中鹿之介という武将が持つ強烈なパワーの現れのようです。



















