淀城跡へ行ってきました。
城跡は淀城跡公園となっていて、子供たちが元気に遊んでいました。

淀城は元和9年(1623年)、松平定綱によって築城されました。
ここは桂川、宇治川、木津川が交わる地点です。
城の復元図を見ても、水に浮かんだ難攻不落の城のように思えます。

淀城は京都を守る重要拠点ということから、城主は代々譜代大名が選ばれ、松平定綱の次が永井氏、石川氏、戸田氏、松平氏と代わり、稲葉正知が城主となってからは明治まで稲葉氏が城主を務めました。

公園には神社が二つあります。
一つは與杼(よど)神社です。
応和年間(961年〜963年)に創建されたという古い神社です。
元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の河原になっているあたりだそうです。明治35年(1902年)に現在地に遷座しました。

もう一つは、城主を務めた稲葉氏の初代・稲葉正成公をお祀りする稲葉神社です。明治17年(1884年)に創建されました。

正成公を調べると、波瀾万丈な人生を送ったことが分かりました。そしてなんと、後の春日局である福と結婚していました。
- 美濃国本巣郡十七条の城主・林政秀の次男として誕生。
- 稲葉重通の婿養子となるが、重通の娘に先立たれる。
- 重通は代わりに姪である斎藤利三の娘・福(春日局)を養女として、正成に嫁がせた。
- 小早川秀秋の家臣となり、関ヶ原の戦いでは秀秋を東軍に寝返らせる。
- 慶長7年(1602年)、小早川家が断絶し、浪人になる。
- 同年、家康の嫡孫・竹千代(徳川家光)の乳母の募集が行われ、福が応募し採用される。このとき、福と離縁する。
- 慶長12年(1607年)、美濃国十七条藩(1万石)の藩主となり、元和4年(1618年)には越後糸魚川藩主(2万石)となる。
- その後、家康の孫・松平忠昌の付家老となるが、寛永元年(1624年)、忠昌の越前移封に従わず閉居となる。
- 寛永4年(1627年)、再び召し出されて下野真岡藩(2万石)の藩主となる。
- 寛永5年(1628年)、死去。
福(春日局)と結婚していた縁もさることながら、浪人や閉居の身から何度も大名に返り咲いているのはすごいと感心しました。周囲に認められる、卓越した実力があったのでしょうね。
城跡には天守台が残り、公園をL字に取り囲む堀が残っています。

堀には「淀姫」という名のハスも植えられているそうです。

この淀城跡公園で、淀君(茶々)に関係するものはこのハスだけでした。
淀君が住んだ淀古城は淀城跡公園から北へ数百メートルの妙教寺のあたりにあったと考えられています。
淀古城は豊臣秀吉存命中の文禄4年(1595年)に廃城となっています。

淀城には豊臣秀吉ゆかりの「淀古城」と徳川時代に建てられた「淀城」があり、今に残っているのは徳川の淀城でした。
二つの城は建っていた場所も異なり、歴史的にもほとんど繋がりがないことが分かったのが、私にとって新鮮な発見でした。



















