堺市・和泉式部宮(和泉式部旧居跡)

堺市西区平岡町に「和泉式部宮(和泉式部旧居跡)」があります。
長保元年(999年)に、夫である橘道貞が和泉に赴任したときに、一緒に暮らしたとされています。

和泉式部の生涯を調べてみました。

  • 天元元年(978年)頃、越前守・大江雅致(おおえのまさむね)と越中守・平保衡(たいらのやすひら)の娘の間に生まれる。
  • 長徳元年(995年)から長保元年(999年)の間に、橘道貞と結婚する。
  • 長保元年(999年)の間に、橘道貞が和泉に赴任。夫の赴任国と父の官名(式部)から「和泉式部」と呼ばれます。
  • 長徳3年(997年)〜長保元年(999年)頃に娘の小式部内侍(こしきぶのないし) が誕生。
  • 長保2年(1000年)頃、冷泉天皇の第三皇子・為尊(ためたか)親王と熱愛。これが大スキャンダルとなり、橘道貞からは離縁され、親からは勘当される。
  • 長保4年(1002年)、為尊親王が亡くなる。
  • 長保5年(1003年)、為尊親王の弟である敦道(あつみち)親王と熱愛。この恋の様子を描いた『和泉式部日記』 が生まれる。このとき、親王は22歳、式部は26歳ぐらい。
  • 寛弘元年(1004年)、道貞は陸奥守として陸奥国に赴任する。
  • 寛弘4年(1007年)敦道親王が死去。
  • 寛弘5年(1008年)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として仕え始める。紫式部と同僚になる。 
  • 長和2年(1013年)頃、藤原保昌(ふじわらのやすまさ) と再婚し、夫の任国である丹後へ渡る。
  • 万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が亡くなる。式部は深い悲しみの中で次の歌を詠んだ。 
     とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり
  • 晩年は不明

    和泉式部が本当に和泉に下ったかどうかは、はっきりしていないそうです。

    次のような夫とのやりとりが残されています。

    和泉と云所へいきたる男の許より「佐野の浦といふところなむ、こゝにありけりと聞きたりや」と言ひたるに
    いつ見てか告げずは知らんあづまぢと聞きこそわたれ佐野の舟橋
    (和泉に行った男(橘道貞)が「佐野の浦という所が、ここにもあると聞いたことがありますか」と言ってきた。
    行ったことがないので、あなたが教えてくれなければわかりません。(歌枕にある)東国(あづまぢ)の「佐野の舟橋」なら、聞いたことはあるけれど) 

    このやりとりを素直に読めば、和泉へ赴任した夫には同行しなかったとも解釈できます。 

    とはいえ、全く行かなかったのかというと、和泉に向かったような歌も残されているということです。

    単身赴任した旦那の所に、様子を見に行く妻・・・という感じでしょうか。
    現代だと、電話、メール、LINEといろいろな方法でコミュニケーションをとれますが、1000年前だと、どうしようもなかったでしょうね。
    寂しさのあまり、若くてカッコイイ為尊親王と熱愛してしまったのかもしれません。

    紫式部は『紫式部日記』で「素行、品行には到底感心できないが、ちょっとした言葉にも情感があふれ、すばらしい歌になっている」とけなしながら、その才能を評価しています。

    あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな
    (私はまもなく死んでしまうでしょう。あの世へ持っていくこの世の思い出として、最後にもう一度だけお会いしたいものです )

    情熱的で、魅力にあふれた女性だったのでしょう。