神戸市東灘区の処女塚(をとめつか)古墳を中心に、西に西求女塚(にしもとめつか)古墳、東に東求女塚(ひがしもとめつか)古墳が並んでいます。
この3つの古墳に対して、菟原処女(うないおとめ)の伝説が生まれました。
万葉集に見る菟原処女伝説
- 葦屋(あしのや)の菟原処女は子供の頃から、髪を束ねる年頃になるまで、箱入り娘のように育てられた。
- この処女と結婚したいと、大勢の男が処女の家を取り囲むようにプロポーズに現れた。
- なかでも、血沼壮士(ちむをとこ)と菟原壮士(うないをとこ)の二人が、激しく争った。
- 大刀の柄を握りしめ、弓を背負って、水の中にも、火の中にも入ろうかという勢いで争うのであった。
- 処女は母に言った。「私のように卑しい者のために、二人が争うのを見ると、生きていても結婚などできません。黄泉の国でお待ちします」
- そう言うと、処女は自ら命を絶ってしまった。
- その夜、血沼壮士は処女を夢にみると、後を追った。
- 遅れを取った菟原壮士は、天を仰ぎ大声を上げ、足ずりし、歯を食いしばり、雄叫びを上げて、腰に刺した小刀で後を追った。
- その後、親族が集まり、この物語を末永く伝えるために、処女塚を中心に、その両側に壮士の墓を作った。

処女塚古墳(東灘区):万葉集で菟原処女を歌った田辺福麻呂の歌碑がある。
3基の古墳は3世紀中頃から4世紀にかけて造られました。
- 処女塚古墳(菟原処女の墓)
4世紀前半の築造。全長70mの前方後方墳。 - 西求女塚古墳(菟原壮士の墓)
3世紀中頃から後半の築造。全長95mの前方後方墳。 - 東求女塚古墳(血沼壮士の墓)
4世紀後半の築造。全長80mの前方後円墳。
築造時期には、それぞれ50年ほどの差があるので、菟原処女との関係はなく、この地方を支配した豪族の墓と考えられています。また、処女塚古墳と西求女塚古墳は前方後方墳なので、ヤマト王権(前方後円墳の勢力)とは別の勢力がいた可能性があります。

西求女塚古墳:求女塚西公園(灘区)にある。墳頂にベンチがあり、木陰で涼むことができました。
大和物語の菟原処女
奈良時代末期に成立したとされる万葉集から約150年後、『大和物語』の147段は菟原処女の話です。
菟原処女を巡って血沼壮士と菟原壮士が争うのは同じですが、少しストーリーが異なります。
- 決めかねる処女に対して、母親が「川にいる水鳥を射った方に、娘を差し上げましょう」と提案した。
- 二人は喜んで、矢をつがえる。
- 同時に放たれた矢は、一つは水鳥の頭を、一つは水鳥の尾を射抜いた。
- これを見た処女は困り果て、川(生田川)に身を投げた。
- 二人の壮士も川に飛び込み、一人は処女の脚を、一人は手を握ったまま死んでしまった。
- 親たちは3人の亡骸を引き上げ、処女の塚を真ん中に、壮士の墓を作ろうとした。
- ところが、血沼壮士の墓を作ろうとすると、「和泉国の男の墓に菟原の土は使わせない」と邪魔をされたので、和泉から土を運んできて塚を作った。
『万葉集』の話からかなり変わっています。
2本の矢が、同時に水鳥を射抜く場面はドラマチックです。
しかし、『大和物語』はここで終わりません。
- 宮廷の女房たちが物語の主人公達になり代わって歌を詠みます。
さらに、場面が変わり
- 塚の傍らで一夜を過ごす旅人のもとに血まみれの男が現れ、仇討ちのために、旅人の太刀を貸して欲しいと言う。夜が明け、男は消えたが、塚には血が流れ、太刀には血が付いていた。
という不思議な話が挿入されています。

東求女塚古墳:求女塚東公園(東灘区)にモニュメントだけが残っています。
能・求塚
さらに時代が進み、室町時代には能の演目『求塚(もとめづか)』が作られました。
- 生田の里を通る旅僧が求塚のことを訪ねると、一人の里女が菟原処女の物語を語り、塚の中に消えていく。
- 僧が塚の前で処女を弔っていると、処女の亡霊が現れる。
- 処女は火炎地獄に落とされていた。
- 火に焼かれ、鉄鳥に頭をつつかれる苦しみを語り、地獄へ戻っていった。
二人の男を死に追いやり、水鳥の殺生の原因を作ったという罪を負い、処女は地獄で苦しんでいる。
恐ろしいですね。
さらに明治に入ると、森鴎外が『生田川』を作っています。
時代によって、物語が変わっていくことがわかります。
将来、菟原処女の新バージョンが作られることがあるでしょうか。



















