天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変の11日後、羽柴秀吉軍と明智光秀軍が戦う「山崎の戦い」が繰り広げられました。
この戦いで勝利した羽柴秀吉は、天下人への第一歩を踏み出しました。
合戦場跡の碑
国道478号線の高架下に、小さな碑がひっそりと立っています。

明智光秀本陣
『太閤記』では、光秀が勝龍寺城から出て「御坊塚(おんぼうがづか)」に本陣を構えたと記されており、光秀の本陣候補として「境野(さかいの)一号墳」と「恵解山(いげのやま)古墳」の2つが考えられています。
境野一号墳
古墳時代前期後半(4世紀後半)に造られた全長58mの前方後円墳です。標高が25mあり、周りを見渡せ、指揮するのに適した場所と考えられます。
「合戦に敗れた光秀が勝龍寺城への退却路を見失った」という伝承があることから、城の目の前にある恵解山古墳ではなく、少し離れた境野一号墳に本陣を置いていたから退却に手こずったのではないか、という可能性が指摘されています。

恵解山古墳
古墳時代中期(4世紀末〜5世紀末)に築造された全長128mの前方後円墳です。標高は約16mです。
土器と火縄銃の鉛弾が出土しており、古墳上にある墓地が棚田状に3段になっていて、陣地として加工された跡と見られることから 、光秀がここを本陣として利用したのではないかと考えられています。

勝龍寺城
戦いに敗れた光秀が逃げ込んだ城です。
その夜、琵琶湖畔の坂本城を目指して城を抜け出た光秀は、落武者狩りに遭い、命を落としました。

織田家で最も出世した武将である光秀。勇気と智謀を兼ね備えていたからこそ、そこまで登り詰められたのだと思います。
しかし、本能寺の変で信長を討ち取るまでは良かったものの、誰も味方になってくれませんでした。信長が死んだ衝撃はあまりに大きく、そして損得だけでは人は動かなかったのですね。
緻密な計算ができるはずの光秀は、この時ばかりは「楽観性バイアス」にかかっていたのでしょうか。
旗立松
天王山の中腹にあります。
「秀吉が天王山の松の木に自らの旗を掲げ、山麓で戦う味方の軍勢を鼓舞した」とされています。ただし、このエピソードは同時代史料には残っておらず、あくまで伝承だそうです。
戦が行われたのは淀川に近いところなので、ここだと距離が離れすぎていて、味方へのアピールにはならなかったのではないかと思いました。

羽柴秀吉本陣
秀吉は高槻の天神馬場から前進し、天王山ふもとの宝積寺を本陣としたとされています。
天神馬場は上宮天満宮の参道のあたりにあったと考えられています。現在でも、一本の道が天神山まで伸びていて、ここなら大軍勢を集められると思いました。

また、宝積寺には秀吉が腰を掛けたという「出世石」がありました。

今年(2026年)に入って、秀吉が姫路城にいた小寺職隆(こでらもとたか)に送った書状、それも6月13日の合戦当日に書かれたと見られる書状が見つかりました。(小寺職隆:黒田官兵衛の父)
そこには、「明日出撃し、陣を構える」と書かれており、秀吉は合戦に遅刻していたのではないかという説が唱えられています。
この説が本当なら、これまでの山崎の戦いのイメージが変わりますね。
でも、そうだとしても、自分が主役でこの戦に勝ったというイメージを現代まで思い込ませているところが、本当の秀吉の凄さかもしれません。



















