岡山市水門町巡り

岡山市水門町をサイクリングしました。
水門町は、江戸時代の岡山藩によって行われた干拓事業によって、その地が開かれたことが由来となっています。

川の中州の町

千町川が水門湾に流れ込む河口部に、川の中に浮かぶように、小さな町があります。

キャプション)写真右から千町川大水門、中州の町、千町大水門

町の両側は水門で、町を貫く道路が走っています。

この道路を東から西へ通ると、千町川左岸 → 千町川大水門 → 中州の町 → 千町大水門 → 千町川右岸というルートになります。

自然でできたわけではない中州に、人が暮らす地域があるなんて。
初めて知ったときは驚きました。
今回、訪れてみると、道路脇にはガレージがあったり、歴史を感じさせる茅葺き屋根のおうちがあったりして、観光地ではなく「暮らしの場」として息づいていることを実感できました。

開拓の歴史

古代から中世

現在の岡山平野(岡山市南区・中区・東区や倉敷市東部など)は広大な海で、「吉備の穴海」と呼ばれ、「児島」はその名の通り、大きな島でした。
吉井川・旭川・高梁川の三大河川によって上流から運ばれた土砂が堆積し、遠浅の干潟が形成されていきました。

戦国時代から江戸時代初期

旭川の改修や早島周辺などの干拓(宇喜多堤)を実施。1618年には高梁川下流域で陸続きとなり、「児島」は「児島半島」、内海は「児島湾」と呼ばれるようになりました。

江戸時代

岡山藩主・池田光政、綱政のもと、津田永忠による開発が加速しました。

  • 寛文9年(1669年)から貞享3年(1686年):百間川の開削(文化11年/1814年の改修時に、川幅が100間(約180m)に整えられたことが名前の由来)
  • 延宝7年(1679年):倉安川が開通し、 倉田三新田(259ha)が開発されました。
  • 貞享元年(1684年):水門町がある幸島新田(562ha)が開墾されています。
  • 元禄4年(1691年):最も大きな沖新田(1,900ha)が開発されました。干潮時に内部の淡水を排出し、満潮時には海水が入らない一方通行の樋(水門)が工夫されました。
明治時代

藤田傳三郎率いる藤田組によって5,500haが開墾されました。

このように、津田永忠による幸島新田の開発の際、海水の逆流を防ぐために水門が築かれました。その維持管理のために造られた土地に、水門を管理する人たちが住み着いたことが、中州の町の始まりであり、現在まで受け継がれているそうです。

亀石神社

水門から海岸線に沿って自転車を走らせると、小さな鳥居が目に入ります。
ここが亀石神社(かめいわじんじゃ)です。

神武天皇が東征のおり、水先案内をした神様が乗った亀の化身(亀石)を祀ったとされています。ここから直線距離で3kmのところには、神武天皇の兄を祀る安仁神社(あにじんじゃ)があります。
神武天皇の一行は、本当にこの地を訪れたのかもしれません。

境内には、昭和9年に中国民報社(山陽新聞の前身)が行った「岡山県下郷土名物推進投票」で「シャギリ船」が最上位入選になったことを知らせる石碑がありました。

興味がわいたのでYouTubeで祭りの様子を調べてみました。

日が落ちた夜、提灯を背の高い三角形のように並べた2隻のシャギリ船が「シャリン、シャリン」という心地よい金属音のリズムとともに、笛を鳴らして進みます。このお囃子が「シャギリ」と言われるもので、その名は音から来ているのかと感じました。
地元の人たちの愛が伝わってくる映像でした。

最後に安仁神社に立ち寄りました。
移動の途中、目に入った水のある景色がきれいでした。

安仁神社

神武天皇の兄たちをお祀りする神社です。

ご祭神

  • 五瀬命(いつせのみこと・神武天皇の長兄)
  • 稲氷命(いなひのみこと・次兄)
  • 御毛沼命(みけぬのみこと・三兄)

創建時期は不詳ですが、神武東征の折とされ、2,000年以上の歴史を持つと伝えられています。古くは「兄神社」や「久方宮(ひさかたのみや)」と呼ばれていました。
元は宮城山頂にありましたが、宝永2年(1705年)に現在地に遷座しました。

この周辺は今でこそ田畑が広がっていますが、かつては海でした。
安仁神社のあたりは奥まった入り江となっており、天然の良港だった可能性があります。
今では陸地となってしまい、想像でしかありませんが、安仁神社や亀石は海を通じてつながっていたのかもしれませんね。