往馬大社にお参りしました。
正式名称は「往馬坐伊古麻都比古神社(いこまにいますいこまつひこじんじゃ)」といいます。
その名の通り、生駒におられる「いこまつひこ」をお祀りする神社です。

神社の由緒については説明板がありました。そこには次のような内容が記されていました。
- 生駒山を御神体として祀られた神社である。
- 最も古い記述は『総国風土記』の雄略天皇3年(458年)である。
- 正倉院文書に記載が見られ、奈良時代からすでに朝廷との関わりがあった。
- 延喜式神名帳に列せられた。
- ご祭神はもともと二柱であったが、中世に八幡神五柱を合祀し、本殿のご祭神は七柱となった。
- 室町時代に作られた『生駒曼荼羅』には七柱の社殿が描かれ、当時の隆盛を物語っている。
- 「火の神」としての崇敬を集め、ご神木である上溝桜(うわみぞざくら)が「火燧木(ひきりぎ)」として大嘗祭(だいじょうさい)で使われてきた。
説明板にあった通り、本殿には以下の七柱の神様がお祭りされています。
伊古麻都比古神(いこまつひこのかみ)
伊古麻都比売神(いこまつひめのかみ)
息長帯比売尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)
足仲津比古尊(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇)
誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)
葛城高額姫命(かずらきのたかぬかひめのみこと・神功皇后の母君)
気長宿祢王命(おきながすくねおうのみこと・神功皇后の父君)
一般的な八幡神社では、誉田別命(応神天皇)、神功皇后、比咩大神(ひめおおかみ)が祀られますが、往馬大社では比咩大神ではなく、仲哀天皇や神功皇后のご両親が祀られている点に特徴があります。

由緒の説明板からは、往馬大社が古くからこの地に鎮座されてきたことがわかります。
ただし、説明板にある『総国風土記』は江戸時代に作られた偽書とされるため、「雄略天皇3年(458年)」という創建年代の記述には注意が必要です。
一方で、同じく説明板にある「正倉院文書」とは『大倭国正税帳(やまとのくにしょうぜいちょう) 』のことです。これは奈良時代の天平3年(731年)に作られた「天平2年度(730年度)」の1年間の収支をまとめた決算報告書です。
この文書の中に「往馬神戸(いこまかんべ)」という項目があり、往馬大社に当時の税(租庸調・そようちょう)が納められていたことが確かめられます。
つまり、奈良時代には税(神戸)を充てられるほどの格を持った神社として確実に存在していたという証明といえます。
平安時代の『延喜式神名帳』(927年成立)にも「往馬坐伊古麻都比古神社二座」と記載され、官社として国からの崇敬を受けていました。
もともとの往馬大社のご祭神である伊古麻都比古命と伊古麻都比売命は「火の神様」です。
大嘗祭で用いられる浄火を起こす道具である、「火燧木(ひきりぎ)」には上溝桜(うわみずざくら)が使われますが、これを往馬大社が献上する慣習があり、平成や令和の大嘗祭でも使用されました。
平安時代中期の書物『北山抄(ほくざんしょう) 』にも、往馬大社が大嘗祭へ火燧木を献上する旨が記されていることから、この慣わしが平安時代(10世紀〜11世紀頃)には定着していたことがうかがえます。
なお、火燧木の材料となるご神木の上溝桜は、殿の南側に立っています。

毎年10月には、火の神としての伝統を受け継ぐ「火祭り」が行われます。
神功皇后の出陣の儀式が起源という伝説がある祭りです。

往馬神社は、特定の社殿がからではなく「生駒山そのもの(神奈備)」を御神体として祀る自然信仰から始まったと考えられています。 社殿が造営される以前の「山の神・火の神」に対する祭祀まで遡ると、古墳時代(4〜5世紀頃)にはすでに信仰の場となっていた可能性が高く、非常に古い歴史を持つ神社であることは間違いありませんね。



















