上寺山餘慶寺(うえてらさん よけいじ)にお参りしました。
餘慶寺は標高60mの上寺山の頂上に位置しています。下から見上げたときは、どうかなと思いましたが、傾斜はそれほどでもなく、ヒルクライムは無事に完走できました。
頂上に着くと、たくさんの伽藍が並んでいるのに驚きました。
そして、次から次に参拝者が訪れていました。

餘慶寺は報恩大師の開基として伝えられている備前四十八カ寺のひとつです。
開山は天平勝宝元年(749年)と、古い歴史を持ちます。
寺名は日待山日輪寺、本覚寺と変わり、室町時代に現在の「餘慶寺」になったと考えられています。
江戸時代には岡山藩主池田氏の庇護のもとで栄え、最盛期には7院13坊を数えました。
現在も6院が残っています。
報恩大師
養老2年(718年)頃、大和で誕生し、延暦14年(795年)奈良・子嶋寺で入寂した奈良時代後期の僧です。
孝謙天皇や桓武天皇の病気平癒を祈願(加持)するなどの活動をしました。
備前では、「備前48ヶ寺」を開基したと伝えられています。
本堂(観音堂)

国の重要文化財に指定されている本堂(観音堂)は室町時代の永禄13年(1570年)に建立されました。
お祀りされている千手観音菩薩は「東向き観音」と呼ばれています。
次のエピソードが伝えられています。
藩主・池田継政(つぐまさ)公が参勤交代の途中、重病になって余命も危ぶまれるほどになりました。ある夜、夢枕に千手観音があらわれ、「自分は備前の東向き千手観音なり。この度の病苦を逃れんとするならば、悩む心を祈る心に改め、あつく我を祈れよ」と告げました。家来に探させると、餘慶寺に東向きの観音様があることがわかり、さっそく祈願したところ、病気はたちまち快方に向かいました。
継政公は一命をとりとめたお礼に、扁額や千手観音の仏画などを餘慶寺に奉納したといわれています。
三重塔

文化12年(1815年)に建立された三重塔は岡山県の重要文化財に指定されています。
西大寺観音院にあった「マンダラ三重塔巡り」によると、餘慶寺の三重塔には知恵を表わす金剛界大日如来が祀られているそうです。
十三仏堂

十三仏堂では階段を地下へと降りていきます。まるで、別世界に入り込んだかのような厳かな雰囲気の中で白色の仏様たちが静かに並んでいました。
豊原北島神社

餘慶寺の特徴の一つは、堂宇と並んで豊原北島神社が鎮座し、神仏習合の姿を今に残している点だと思います。
明治政府が神仏分離令を発布する約200年前に、岡山藩初代藩主・池田光政公による寺院整理が行われ、餘慶寺と豊原北島神社がはっきり区別されていたため、廃仏毀釈の難を逃れました。
なお、豊原北島神社は第34代・舒明天皇6年(634年)が創建とされており、これは餘慶寺の開山よりも前になります。
児島高徳公・和田範長一族供養塔

この地には、児島高徳を育てた和田範長一族の居城があったと伝えられ、立派な供養塔が建てられています。
餘慶寺の子院である明王院や恵亮院(えりょういん)は和田一族の菩提寺だそうです。
山上にこれほどの寺院があるとはまったく想像していませんでした。
餘慶寺が持つ長い歴史とさまざまなエピソードに触れ、今もなお人々から篤い信仰を集めていることに深く感銘を受けました



















