備中高梁・山田方谷記念館

岡山県高梁市に山田方谷記念館という、幕末期の備中松山藩士・山田方谷の資料館があります。
方谷は、借金に苦しむ備中松山藩を救った改革者であり、幕末の動乱に巻き込まれた松山藩を導いた指導者、そして優れた人材を生み出した教育者でした。

山田方谷記念館では数々の資料が展示され、方谷の略歴や実行した改革がよくわかるようになっています。

方谷の略歴

  • 文化2年(1805年):備中松山藩の農商の家に生まれる。
  • 文化6年(1809年):5歳の頃から新見藩の丸川松陰の塾で学び始める。
  • 文政2年(1819年):父が亡くなったため、松陰の元を去り家業を継ぐ。
  • 文政8年(1825年):備中松山藩主・板倉勝職(いたくらかつつね)に学才を評価され、藩校「有終館(ゆうしゅうかん)」への出仕を許される。
  • 天保7年(1836年):京都、江戸での遊学を終えた方谷は、藩校・有終館の学頭に就任。
  • 天保9年(1838年):私塾「牛麓舎(ぎゅうろくしゃ)」を開く。
  • 嘉永2年(1849年):松山藩主・板倉勝静(いたくらかつきよ)により、元締役兼吟味役に抜てきされ、藩政改革を開始する。
  • 安政4年(1857年)頃:10万両の負債を完済する。嘉永2年に藩政改革をスタートしてからわずか8年だった。
  • 安政6年(1859年) :西方村長瀬(現・高梁市中井町)に移住する。
  • 越後長岡から河井継之助が来訪し、弟子入りする。継之助は翌年長岡に帰る。
  • 明治元年(1868年):鳥羽・伏見の戦いの後、藩主・板倉勝静は徳川慶喜とともに大阪から江戸に退去。松山藩は新政府側の征討軍に降伏し、開城する。
  • 明治3年(1870年):長瀬から小阪部(現・新見市大佐)へ移住し、塾を開く。
  • 明治10年(1877年):死去。

方谷が行った改革策として以下の7つが挙げられます。

  • 上下節約
  • 負債整理(大阪蔵屋敷の廃止を含む)
  • 産業振興(備中領内で取れる砂鉄を使った「備中鍬」などのヒット商品を生む)
  • 藩札の刷新(信用の落ちた旧藩札を破棄し、新たな藩札・永銭を発行する)
  • 士民撫育
  • 教育改革(学問所の新設など)
  • 軍制改革(洋式兵制の導入、「農民隊」、「里正隊」の編成)
家塾「牛麓舎(ぎゅうろくしゃ)」跡

方谷は元々教育者でした。
山田方谷記念館には方谷が育てた人材として、二松学舎(現二松学舎大学)を設立した三島中洲(みしまちゅうしゅう)をはじめとする4名が紹介されていました。

藩政改革を成し遂げたことは大きな功績ではありますが、藩校「有終館」や私塾「牛麓舎」で人材を育てたことも、それに劣らない功績だと思います。
方谷が本当にしたかったのは、教育者として次の時代を担う人を育てることだったのではないかと感じました。

姫路には、河合寸翁(かわいすんのう)という姫路藩の財政を立て直した人物がいます。
家老だった河合寸翁は藩政改革を行い、27年を掛けて62万両もの借金を完済するとともに、私塾「仁寿山黌(じんじゅさんこう)」を設立し、人材を育てました。

河合寸翁が亡くなったのは、明治維新の27年前(天保12年・1841年)なので、山田方谷とは生きた時代が少し異なりますが、藩政を改革して財政を立て直すとともに教育に力を入れたという点は同じだなと思いました。

それにしても、備中高梁にはすごい人がいました。
方谷は「至誠惻怛(しせいそくだつ)」をモットーとして、改革を成し遂げました。
 至誠惻怛:この上ない誠実さと、他者の苦しみを深く思いやる心のこと。

JR備中高梁駅前の山田方谷像