出石

出石を訪問しました。
出石は兵庫県豊岡市にあり、出石城の城下町です。きれいな町並みで出石そばが美味しかった。

辰鼓楼

明治4年(1871)に三の丸大手門脇の櫓台に時刻を知らせる太鼓を叩く櫓として建設されたそうです。明治14年(1881)に医師の池口忠恕氏が大時計を寄贈されました。今の時計は3代目とのこと。

札幌の時計台との古さ比べでは、辰鼓楼の時計が稼働した日付が明治14年9月8日、札幌の時計台は同年8月12日で、札幌時計台が国内最古、辰鼓楼は国内で2番目となりました。

現在、午前8時、午後1時に太鼓が、夕方には梵鐘がなるそうです。

出石城

もともとは山名氏が出石に此隅山城(このすみやまじょう)を築きます。永禄12年(1569)羽柴秀吉による但馬遠征で落城。その後、山名氏は織田信長と和睦し、出石に復帰。有子山城を築きます。その後、山名氏は毛利形についたため、再度、秀吉に攻撃され落城。
江戸時代になると、慶長9年(1604)に小出氏が出石城を築城します。その後、藩主は松平氏、仙石氏と代わり、仙石氏が明治まで続きました。

宝永3年(1706年)、松平氏に代わって信州上田藩の仙石氏(仙石政明)が出石にやってきたときに、仙石氏と一緒に信州から来たそば職人の技法が在来のそば打ちの技術に加えられ、出石そばが誕生したそうです。
江戸時代の改易は文化の交流を促しました。

家老屋敷

家老級の高級武士の居宅として使われていたそうです。

凛としたお侍

大名行列の道具などが多数展示されています。
大名行列の槍振りが、当時の行列の中で最も勇壮華麗と言われた江戸の赤坂奴の行列作法を伝えていて、11月3日の出石お城まつりで披露されます。
館内では ビデオで槍振りとはどういうものかを観ることができました。

おりゅう灯籠

旧出石川の大橋東詰めにあった船着き場の灯籠。
江戸時代の出石川は現在の3倍以上の川幅があり、水量も多く、年貢米をはじめとした物資の輸送が行われていたようです。

「おりゅう灯籠」の名前は、鎌倉時代の悲恋物語のヒロイン「おりゅう」に由来しています。

今から七百年ほど前、出石川は町のまん中を流れ、大きな船が往来して、毎日賑わっていました。そのころ、出石のある豪族の屋敷には若い侍が暮らしていました。彼は書を学び、武術を練習し、たくましい青年に育っていきました。

この屋敷には、おりゅうという心も顔かたちも美しい娘が奉公していました。お互いに惹かれ合う二人は、恋に落ちました。しかし、身分の違いはその恋を実らすことを阻みました。

おりゅうは里に帰されました。そんな時、日本に蒙古軍が攻め込んできました。武術に優れた若い侍は九州の防衛のために、あわただしく旅立っていきました。愛する彼の出征を聞いたおりゅうは船着き場に走りました。しかし、彼をのせた船は見る見る遠ざかってしまいました。

それから数ヶ月後、彼の戦死の報が屋敷にもたらされました。おりゅうの体が出石川に浮いたのは、その数日後でした。

以後、大雨のたびに出石川は氾濫します。人々は、これはおりゅうの悲しみの現れだと語り合いました。そして、これを鎮めるために、船着き場にほこらを建てて供養し、そのそばには灯籠も建てました。その灯は、上り下りする船の船頭たちの道しるべになり、「おりゅう灯籠」とよばれるようになりました。今も、出石川の橋のたもとに、おりゅう灯籠が建っています。

但馬の百科事典より