三木・大村由己の像

豊臣秀吉の祐筆として働いた大村由己は兵庫県三木市大村の出身でした。
地元に大きな像が建っています。

大村由己を説明する石碑には次のようなことが書かれています。
秀吉の祐筆であり、三木城攻略により疲弊した三木を救うために活躍した人物のようです。

金剛寺の僧となって「頼音房」と名乗る。京都では禅、漢詩、和歌を学び、帰郷して長楽寺の住持を務めた。三木城攻略の際に、その文才を羽柴秀吉に見出され、御伽衆になる。
秀吉の軍記物「天正記」を著す。
三木城落城後、三木を免租地とすることを秀吉に進言。朝鮮征伐の随行の折に手に入れた仏像画を混合時に寄進し、寺の再建に尽力した。

大村由己像は薬師堂の裏手にあります。

薬師堂
菩薩様

薬師堂の脇には菩薩様が並んでいます。奥に進むと、供養塔が建っていました。

供養塔
供養塔建立の記

そばの石碑に供養塔が建立された理由が記されています。

このあたり一体を「寺カイチ」「坊カイチ」と呼ぶことから、昔は寺院坊舎が建ち並んでいたことが考えられる。
秀吉の三木城攻略で寺院仏閣は全て焼き払われ、薬師堂だけが再建されている。
付近では寺の礎石、墓石が見つかっている。
薬師堂前の道路ではなぜか事故が多い。
寺院の焼失の際には、寺僧たちも犠牲になったことを考えると悲惨なことである。
鎮魂のために供養塔を建てる。

戦になると寺や神社が焼き払われ、そこにいた人たちも殺されるということを改めて考えさせられる内容でした。

大村由己はそういう三木の有様を目の前で見、記録を書いていったのでしょう。