別所長治公・三木城跡

羽柴秀吉と三木別所氏で戦われた三木城跡を訪問しました。三木城跡は神戸電鉄粟生線の三木上の丸駅すぐのところにあります。

三木合戦の主人公たちの大きな看板。みんな現代風の可愛らしい顔になっています。

三木合戦は天正六年(1578)三月から天正八年(1580)1月まで、約2年間続きました。
別所長治は三木城五代目城主で、開戦時は20歳でした。

天正五年(1577)加古川城で毛利攻めの軍議(加古川評定)が開かれます。
もともと三木氏も織田の味方で、長治の叔父、賀相が出席していました。
この場で、秀吉と賀相が揉めたようです。

結局、三木氏は織田・秀吉に反旗を翻すことになります。
三木家は播磨の名門赤松直径の家系で、東播磨3郡の守護代であり、名門でした。もとの素性がわからない秀吉に対して偏見もあったと思われます。
しかし、長治は天正三年に赤松則房といっしょに織田信長に拝謁し服従を誓っています。
また、天正五年に秀吉が播磨に入ったときは、秀吉の播磨制圧に協力し、播磨各城の人質を三木城に預かっていました。
こういう状況だったのに、織田・秀吉に敵対してしまった。

当時、織田より反織田勢力の本願寺、毛利氏のほうが信用できたのかもしれません。何より、秀吉が気に食わなかったのかもしれません。

でも、この裏切りに信長は激怒したと思います。

別所長治は三木城に籠城し、野口城、神吉城、志方城などが別所氏の味方をします。
約2年に渡る、別所対織田・秀吉軍の戦いが繰り広げられました。

三木城跡

城は本丸、二の丸を中心にして、新城、鷹尾山城、宮ノ上要害で構成され、南側は山と谷、他三方を崖に囲まれています。土作りの城として播磨最大級とのことです。
秀吉の軍勢は約8000人。この人数では城を攻め落とすことができす、兵糧攻めにするしかなかったのだと思いました。

別所長治は天正6年3月(1578)から約2年間籠城しましたが、頼みにした毛利の援助も得られず、天正8年1月(1580)城兵の命を助ける代わりに別所長治一族が切腹、自害することを条件に開城しました。

自害したのは長治だけではありません。妻の照子も自害、4人の子供は照子が刺し殺すという悲惨な最期でした。さらに弟夫婦、おばとその子供も自害しました。

別所長治公辞世の句
今はただ うらみもあらじ 諸人の
いのちにかはる 我身と思へば

別所一族の辞世の碑
別所長治公石像

別所長治公首塚

三木城跡の南にある雲龍寺に別所長治公の首塚があります。

雲龍寺は天徳二年(958)に創建と伝えられていますが、三木合戦で消失しましたが、戦後、再建されました。
秀吉の兵糧攻めにあい、城内のわらまで食べたという言い伝えにより、わらに見立てたうどんを食べる会が催されています。

雲龍寺は天徳二年(958)に創建と伝えられていますが、三木合戦で消失しましたが、戦後、再建されました。
秀吉の兵糧攻めにあい、城内のわらまで食べたという言い伝えにより、わらに見立てたうどんを食べる会が催されています。

首塚
右が長治公、左が夫人の照子の五輪塔

長治公の首は安土城に送られ、信長による首実検が行われました。その後、雲龍寺の住職が安土より持って帰り、埋葬し祀りました。

三木城外堀に使われていた石垣が残っています。

法界寺

天平四年(732)行基によって開基されましたと伝えられています。
別所氏の菩提寺で、別所長治公が自刃したとき、その遺体を埋めたと伝えられます。
毎年、四月十七日に三木合戦と長治公の遺徳を偲ぶ「三木合戦絵解き」が続けられています。

山門
本堂
別所長治公墓所
別所氏家臣墓所
別所長治公石像