焚堂・塩冶判官高貞の妻

太平記に塩冶高貞(えんやたかさだ)という武将とその妻のエピソードがあります。

塩冶高貞は後醍醐天皇の倒幕の挙兵に応じ、鎌倉幕府との戦いで活躍した。そして、その恩賞として宮中の美人を賜り、妻(早田夫人)とした。
ところが、足利家の執事高師直がこの美人に目をつけた。高師直は早田夫人の湯殿を覗き見、兼好法師に恋文の代筆をさせる。最後には、夫の高貞を亡き者にしようと讒訴し、討手を差し向けた。
危険を察知した高貞は一足先に出雲へ落ち延びる。
妻の早田夫人は夫とは別の道を逃げてきたが、播磨陰山の庄(姫路市豊富)で高師直に追いつかれ自害した。

塩冶高貞の妻 早田夫人が自害した播磨陰山の庄は姫路市豊富の旧酒井村で、「袖掛けの松」、「焚堂跡」、「圓通寺」があります。

酒井村史跡案内マップ

袖掛けの松

村の入口にひときわ目立つ松の木があり、その松に向かって夫人は夫の無事帰国を願いつつ「待つよ心あらばわが哀れな最期と無念の思いを後世に長く伝えよ」と自分の小袖を松の枝に掛けて祈られた。

お堂の中に枯れた松があります。
この松こそが、早田夫人が小袖を掛けられた袖掛けの松とされています。
松の色は煤けていて、焼けたような色をしています。

焚堂跡

袖掛けの松からすぐのところに焚堂跡があります。

高貞は家臣の八幡六郎ら二十余人に早田夫人と子供二人を守るせ、自分とは別の道を行かせた。高貞は出雲に帰り着いたが、夫人らはここで高師直の軍勢に追いつかれた。
六郎たちは敵を迎え撃ち、奮戦したが衆寡敵せず、次男を僧侶に預け、夫人と長子を刺殺した後、草堂に火をつけ、二十余人全員が自刃した。

次男を預けられた僧侶が灰の中から遺体を拾い上げて埋葬し、焼け跡に建てた塚が焚堂となった。

焚堂の跡が石囲いされています。

焚堂跡

奥に進むと早田夫人の碑やお墓が現れます

文政2年(1819)に建てられた
「蔭山焚堂早田妙応夫人の碑」

夫人を守ってなくなった家臣の墓でしょうか

圓通寺

早田夫人が自害された焚堂跡から夫人の守り本尊と見られる仏像が出たといい、これを本尊とし、夫人の戒名「水月院圓通妙應大姉」から圓通寺と名付けられたといいます。本尊は十一面観世音菩薩。

太平記では塩冶高貞とその妻の話は有名ですが、この話は太平記だけにしかなく、史実とは違うようです。

高貞は後醍醐天皇に仕えた武将でした。
高貞は興国2年/暦応4年(1341)、突然に出雲へ出国します。それを幕府に密告したのは高貞の弟の塩冶四郎左衛門。討手は山名時氏と桃井直常という武将で高師直ではありません。
高貞は南朝方に内通していた可能性があるようです。
加古川称名寺には高貞を守って討ち死にした七名の供養塔があります。
高貞は陰山で自害したという記録もあります。
何らかの戦いがあったのは事実と思われます。