兵庫津

新川運河沿いを歩いてみました。
ここには平清盛に関連するお寺、兵庫の港の史跡が多く残っていました。

まず、清盛くんが出迎えてくれました。
平清盛によって経ヶ島などが建設され、大輪田泊は日宋貿易の拠点になりました。
その後、大輪田泊は兵庫津に発展。
明治になると兵庫港として海外に開かれた港になりました。
平清盛公がいなかったら兵庫の発展はなかったとして、「清盛くん」が作られました。

入江橋の清盛くん
新川運河
大輪田橋から見る新川運河

天正8年(1580)花隈城を攻め落とした功によって池田信輝、輝政親子は兵庫の地を与えられ、兵庫城を築きました。
江戸時代には兵庫城は尼崎藩の陣屋になります。明治になると兵庫裁判所となり、続いて兵庫県庁になりました。その後、明治6年に県庁は現在地へ移転します。
明治7年に新川運河が造られたときに、兵庫城の大部分は川敷になりました。

兵庫城跡の碑

大輪田橋とのコーナーに住吉神社、清盛塚があります。清盛塚の石造十三重塔は弘安9年(1286)に造られたもので、北条貞時が建立したと伝えられています。

住吉神社
清盛塚

大輪田橋を渡りました。大輪田橋は大正13年(1924)に竣工したコンクリート造の3連アーチ橋。大輪田橋は太平洋戦争での神戸大空襲、阪神淡路大震災と2度の災禍を経験しています。平成10年(1998)、損傷の少ない1本の飾り柱に、戦災と震災のあった冬の星座4面をあしらったモニュメントとして修復されました。

新川運河を渡る大輪田橋
欄干に「おほわだはし」
冬の星座があしらわれた飾り柱

大輪田橋を渡ると兵庫津ミュージアムがあります。
パンフレットには兵庫県誕生の物語と兵庫五国(摂津、播磨、但馬、丹波、淡路)の魅力を伝える「ひょうごはじまり館」と兵庫県誕生時に県庁が置かれた大坂町奉行所兵庫勤番書の建物を復元し「初代県庁館」の2つで構成されます。訪問したときは「ひょうごはじまり館」は建設中で、「初代県庁館」を見学しました。
「ひょうごはじまり館」では 初代兵庫県知事・伊藤俊介(博文)が執務した部屋が再現されています。伊藤博文が兵庫県知事に抜擢されたのは28歳のとき。伊藤博文は幕末のテロリスト?でかつイギリス留学の経験もあるということで、外国人が多い神戸でその英語力、行動力がかわれたのでしょう。
そして、柴田剛中(たけなか)という興味深い人物がいました。柴田は幕府の使節としてヨーロッパを訪れた(文久2年/1862)こともある人物で、兵庫開港には兵庫奉行として尽力し、維新後は退官し、新政府に仕えませんでした。何か、名前の通り剛直な、骨太な人柄を感じました。

兵庫津ミュージアム
初代県庁館入り口

ずっと歩いていくと神戸・清盛隊というグループの絵が書かれた築島水門がありました。

ウィキペディアによると「清盛隊は2011年に大河ドラマ「平清盛」放映にあわせて結成されたグループで、メンバーは平清盛とその子供・甥(平重盛、平宗盛、平知盛、平重衡、平敦盛)と謎の人物・GIONの7人。
現在も活動が続いているようです。

築島水門の清盛隊

水門からすぐのところに経ヶ島を築く工事を成功させるために人柱となった松王丸を弔う来迎寺(築島寺)があります。

来迎寺
松王小児入海之碑

応保元年(1161)7月13日、石の櫃(ひつ)に入れられ、白馬の背に乗せられて港へ運ばれ、千人の僧侶の読経がひびく中、海の中へとしずんでいった。
人々は涙を流しながら、お経を書き写した大小さまざまの石を海へ投げ入れた。

みんなが見ている前で、ドラマチックに海に沈んでいく・・・。
松王丸はこのとき17歳。見ていた人は哀れに思ったでしょうね。

平清盛が活躍した900年前から現在まで、ここ兵庫津は歴史が詰まった場所でした。