須磨の敦盛塚を訪問しました。
平敦盛は平清盛の弟・経盛の末子として嘉応元年(1169)に生まれました。笛の名手で、祖父・平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』の笛を授かります。
義経の鵯越の逆落としの奇襲により平家が破れた一ノ谷の戦いで源氏の武将・熊谷次郎直実に討たれました。
16歳でした。
高さは4m。京都の石清水八幡宮の五輪塔についで全国2位の大きさがあります。
室町末期から桃山時代に作られたものと考えられています。
平敦盛の供養のために建てられたので敦盛塚と呼ばれています。
鎌倉幕府の執権・北条貞時が平家一門の冥福を祈って建立したという説もあるそうです。
五輪塔の根もとに落書きされた石がありました。
蝸牛 角 ふりわけよ 須磨明石
と書かれています。
松尾芭蕉の句でした。
『笈の小文』の旅で芭蕉は須磨、明石まで足を伸ばし、ここで蝸牛(かたつむり)の句を読みました。句の意味は「かたつむりよ、角を振り分けて須磨と明石を示してくれ」ということで、一の谷の戦いや敦盛とは関係がなさそうです。
須磨浦公園の少し東に一の谷川があり、「戦の濱碑」が建っています。
1184(寿永3)年2月7日の源平の戦いに際して平家の陣があったことから、一の谷川を古来「戦の川」といい、その奥を 「源平つつじのさきわけの谷」といった。
一の谷から西一帯の海岸は「戦の濱」と言われ毎年2月7日の夜明けには、軍馬のいななく声が聞こえるとも言われている。
戦の濱碑から山の方へ歩くと急坂があります。Googleマップには「逆落とし」として紹介されています。
今、この坂は階段になっているから上り下りできますが、馬に乗って降りられるとは考えられません。
坂東武士は本当に乗馬が上手だったのでしょう。
平敦盛はただ一人、沖に浮かぶ平家の船に逃げこもうと馬にまたがり海に入る。そこへ「おおい、おおい」と呼ぶ声が聞こえる。熊谷次郎直実だった。
平家物語より
逃げ切れないことを悟った敦盛は駒をめぐらして陸へ戻る。
直実は名乗りをあげるが敦盛は無言。
あっという間に直実に組み敷かれる。
首を掻っ切ろうとする直実。観念した敦盛を見た瞬間、同じ年頃のわが子を思い出す。
助けようと言う直実。敦盛に名を尋ねる。しかし敦盛は、「我が名は九郎義経に聞け。首をとって義経の前に供えよ」という。
次の瞬間、敦盛の首をつかみ横笛を奪った。
敦盛の首実検をした池と笛が須磨寺に残されています。
熊谷次郎直実は直情型で反骨精神の強い武将でした。
弓の名手であった直実は鶴岡八幡宮の流鏑馬で「的立て役」に命ぜられたのを拒否して所領の一部を没収されます。領地問題の訴訟では、頼朝の面前で「不利な判定が出るに決まっている」と怒り、髷を切り落として飛び出してしまう。
すごく激しい人です。
直実は鎌倉幕府が誕生した1192〜3年頃に家督を嫡子直家に譲ったあとで出家しました。
出家の直接の理由は敦盛の首を取ったことではなさそうです。でも、敦盛の供養もしたようです。褒美をもらうために戦で相手を殺すことと、殺した相手を供養するということに対して、今とは全く違う考えがあったのだと思います。