志染の石室

志染の石室を見に行きました。

県道83号線(平野三木線)の方からアクセスしました。
石室への看板があって、そちらに向かってあるきましたが、草もすごくて歩きにくかった。
三木市観光サイトに書かれている「御坂の交差点から志染川を渡って、少し南へ道を戻る」のほうが正規のルートかもしれません。

志染の石室は「播磨風土記」、「日本書紀」に第23代顕宗天皇(弘計王)、第24代仁賢天皇(億計王)が雄略天皇から隠れて、住んだところと伝えられています。

志染の石室の説明看板


石室は高さ2.7m、幅14.5m、奥行7.2m。
一年中湧き水をたたえている。
12月下旬〜3月初旬にひかり藻(天然記念物)の作用で、湧き水が金色になるなど、色を変えることがあるので窟屋の金水と呼ばれている。

二人の王子はこの石の下に住んでいたのでしょうか?

石室の湧き水は濁っていました。

二人の王子が住んでいたときには、水はなかったのかもしれない。

石仏に囲まれたお堂がありました。

お堂の中には2体の仏像があります。
二人の王子を表しているのでしょうか。

周りには池があり、きれいです。

弘計王、億計王の話は激しい。

第19代允恭天皇が崩御(453年)。
皇太子は木梨軽皇子だったが、近親相姦が発覚して群臣の支持が得られなかった。
群臣の支持を受けた穴穂皇子が兄の木梨軽皇子を殺して即位する(第20代安康天皇)。

安康天皇は弟の大泊瀬皇子の結婚相手として草香幡梭姫皇女を撰ぶ。
しかし、使いに出した根使主の讒言で草香幡梭姫皇女の兄・大草香皇子を殺し、その妻を自分の皇后としてしまう。
しかし、皇后の連れ子の眉輪王に父を殺したことが知られ暗殺される。

安康天皇は皇位をいとこの市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)に継がせることを考えていたが、安康天皇の弟・大泊瀬皇子が市辺押磐皇子を殺し、第21代雄略天皇として即位する。

市辺押磐皇子の二人の王子である弘計王、億計王は丹波に逃げ、ついで播磨に逃げ、志染の石室に隠れ住んだ。
二人は屯倉首の忍海部細目の家僕になり長い間牛馬の飼育に携わっていたが、新室の宴会の席で皇孫であることを名乗り出る。
当時は第22代清寧天皇の御代であったが、天皇には子がなかったため、二人は迎えられた。

その後、弟の弘計王が第23代顕宗天皇、兄の億計王が第24代仁賢天皇として即位する。

この二人は玉丘古墳の根日女伝説にもでてきます。
天皇に即位するときも兄弟で譲り合ったらしく、二人はすごく仲良しだったようです。
二人が天皇であった時代は民衆を愛し、国がよく治まったらしい。
長く牛飼いをして、庶民の暮らしを経験したことが活きたのかもしれません。