木之本・北国街道

木之本は北国街道と北国脇街道が交わる宿場町でした。
今も街道沿いの商店街は昔の面影を残しています。

北国街道は近畿と北方を結ぶ道で、彦根から福井県今庄まで通っていた。
北国脇街道は木之本から関ケ原へ通じる道。秀吉は大垣から賤ケ岳までの52kmを5時間で駆け抜け(美濃大返し)、柴田勝家の軍勢を打ち負かした。

「牛馬市」と書かれた張り紙のあるお店に「動かぬお地蔵さま」のお話がありました。
木之本がどうしてこの名前になったのかがわかる話でした。

遠い南から一体のお地蔵様を背負ったお坊さんがやってきた。
お坊さんはお地蔵さまをおまつりするよい場所を探して、長い旅を続けていた。
この伊香の入江のほとりを通りかかり一本の大きな柳の下にさしかかるとお地蔵さまが急に重たくなった。
そこでお坊さんは休憩しようと、お地蔵さんを背からおろし山気の下に安置した。
お坊さんは周りの景色の美しさにしばしうっとりして時を忘れた。
休憩をして元気になったお坊さんがお地蔵さまを背負おうとすると、お地蔵さまが重くなって、まったく動かなくなりました。
何度も持ち上げようとしてもお地蔵さまは動きません。
「お地蔵さまはこの柳の下に住みたいのだ」と覚って、そこにお堂を建ててお地蔵さまをおまつりしました。
そして、いつしかこの場所は木之本と呼ばれるようになりました。

木ノ本地蔵院

木ノ本地蔵院

動かぬお地蔵さまがご鎮座されたのが木ノ本地蔵院です。
日本三大地蔵の一つで、無縁息災の仏様、目の仏様です。
正式名称は長祈山浄信寺。昌泰元年(898年)に菅原道真が参拝し、長祈山浄信寺と改号したといいます。

本堂(地蔵堂)

この日は本堂内に入り、裏地蔵尊、仏像や仏絵などの寺宝を見学させていただくことができました。それにしても、たくさんの仏像です。よくぞ、こんなに集めたものだと感心しました。
地蔵院には弘法大師空海、源義仲、足利尊氏、足利義昭、豊臣秀吉などの有名人が訪れており、篤い信仰を集めてきたのだと思います。

次に戒壇巡りをしました。
本堂の脇から地下に入っていきます。
本当に真っ暗です。全く何も見えません。右手を壁につけて歩くのですが、そうしないと足が前に出ません。距離は31間(55m)しかないのですが、長い時間に感じました。
ここまで真っ暗なのは初めて。死んだらこんなに暗いところを歩くのかなとも思いました。
出口に到着して日の光を浴びると、行き返ったようです。

本堂の右手には大きなお地蔵さまがおられます。日本一の大きさで、明治27年(1894)に建立されました。
お地蔵さまの足元にはたくさんのカエルがいます。それも片眼をつむっています。

地蔵菩薩大銅像

お寺に住むカエルは「すべての人の大切な眼がお地蔵さまのご加護をいただけますように」、「すべての人が健康な生活を営むことができますように」と身代わりの願をかけ、片方の目をつむって暮らしているそうです。

片目をつむった身代わりカエル

轡の森

地蔵院から100mほど離れたところに轡の森があります。
むかし木ノ本地蔵院で大法要が営まれたとき、伊香具神社の神官が馬の轡を洗い、馬をつないだことから轡の森と呼ばれるようになったそうです。

轡の森に残る犬目桜

そばに河濯大権現(かわそだんごんげん)と刻まれた石碑がありました。
そして由来記が掲げられ、次のことが書かれていました。

河濯大権現はご神体が息気長足姫尊でご本尊は大日如来という神と仏の混合体とされ、女性の病気平癒、安産と子宝の神として信仰されている。

河濯大権現の碑

さらに息気長足姫尊(神功皇后)について述べられています。

息気長足姫尊は坂田郡息気長村の息気長宿禰王の娘で17歳のとき仲哀天皇の皇后になることが決まっていたが、女性の病気を患い悩んでいた。
ある日、川に流れてきた一輪の蓮の花についていったところ、手に薬草を持った老僧が現れ、「この川で身を濯ぎ、大日如来を信ずれば前は全快するであろう」と告げて姿を消した。
娘は家に代々伝わる鏡を大日如来として拝み、川の流れで身を濯ぐと、ついに全快した。
娘は仲哀天皇の妃・神功皇后となり子宝(応神天皇)となった。

これには驚きました。坂田郡は今の米原市付近にあった実際にあった地名です。
神功皇后は滋賀県の出身だったのですね。米原のあたりは息長氏の勢力下にあったようです。
瀬戸内沿いには三韓征伐の行き帰りに神功皇后が立ち寄ったという伝承がたくさん残されています。それは神功皇后は勇ましい人だったと思わせる伝説です。
でもここに書かれていることは、可愛らしい乙女の姿です。こういう面があったなんて今まで考えもしませんでした。

木之本で神功皇后の出身地がわかるとは想像もしていませんでした。
いろいろなところへ行くと見分が広がります。