岡崎城

徳川家康公の居城であった岡崎城に行きました。
家康公は天文11年(1542)にここ岡崎城で生まれます。
その後は今川の人質となり岡崎に帰ることはできませんでした。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、岡崎城に帰還。このとき徳川公は19歳。
元亀元年(1570)、嫡男信康を岡崎城主にし、本拠を浜松に移します。
家康公は19歳からの10年間。若い日々を岡崎城で過ごしました。

神橋で龍城堀を渡り城内に入る

神橋を渡ったところの石垣は立派です。
もっと小さい城かと思っていたのですが、スケールの大きい城のようです。

天守閣の北側に大きな堀切があります。清海堀です。
これを見ると、この城を攻めるのは難しかっただろうと思います。
清海堀の名は岡崎城の築城者、西郷頼嗣の法名「清海入道」からきているそうです。

清海堀

天守閣の前には家康公の遺訓碑(東照公遺訓碑)と遺言碑(家康公遺言碑)がありました。
東照公遺訓碑には有名な「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し、急ぐべからず」が刻まれています。

東照公遺訓碑
家康公遺言碑

天守閣は昭和34年(1959)に再建されたものです。
中は博物館になっています。

天守閣

2階では岡崎城や松平家の歴史、岡崎城の造り、3階は岡崎城下町、4階はシアターが展示され、5回の最上階で、廻縁があります。

最上階からの見晴らしはよく、岡崎の町がよく見えます。

最上階から

城内には龍城神社(たつきじんじゃ)があります。
ご祭神は徳川家康公、本多忠勝公、天神地祇、護国英霊です。
石碑には百願成就とあります。100ののお願いを叶えてくれるようです。
石鳥居の裏側には「大正2年9月」と「岡崎藩士一同」と刻まれていました。大正になっても、岡崎藩の藩士であったという意識を持ち続けられていたのでしょうか。

龍城神社

龍城神社のご利益は出世、開運、安産、厄除け、金運ということで、徳川家康公、本田忠勝公にあやかるということだと思います。
しかし、城内に展示されている松平家の歴史を見ると、家康公が将軍まで上り詰めたのは奇跡と思えます。

家康公の祖父・松平清康は三河を統一しますが、25歳で家臣に殺害されます。
父の松平弘忠は織田方の刺客により24歳で殺害されます。
こんな厳しい状況の中、良く生き残っていったと思います。

人の一生は重荷を負(おい)て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基(もとい)、いかりは敵とおもえ
勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。
 東照公遺訓碑より

わが命旦夕(たんせき)に迫るといへども、将軍斯(か)くおはしませば、天下のこと心安し、
されども将軍の政道その理にかなわず、億兆の民艱難(かんなん)することもあらんには、たれにても其の任に変らるべし、
天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四悔安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかも、うらみに思ふことなし
 家康公遺言碑より

家康公の厳しい経験から東照公遺訓や遺言のような思想が生まれたのでしょうか。