三木・御坂神社

御坂神社の御祭神は八戸掛須御諸神(ヤトカカスミモロノカミ)、大物主神(オオモノヌシノカミ)、葦原志許男神(アシハラシコオノカミ)。
いずれも大国主命(オオクニヌシノミコト)の別名ということです。

羽柴秀吉による三木城攻めで社殿、記録が消失したため、創建年は不詳となっていますが、延長5年(927)に成立した延喜神名帳に、播磨国五十座のうち美嚢郡(みなぎのごおり)一座御阪社と登載されている歴史のある神社です。

また、播磨風土記では美嚢と志染の地名のいわれとともに当社のことが出てきます。

  • 履中天皇が志染の里の社にご参拝なされたとき、「ここは水の流れがたいへんきれいだ」と言われた。そのため、美嚢郡と名付けられた。
  • 履中天皇がお食事を取られたとき、しじみ貝がご飯の箱の縁に這い登ってきた。そのとき、「この貝は阿波の和那散で食べた貝だ」と言われた。そこで、この地を志染の里と名付けた。

さらに、播磨風土記には志染の石室に隠れた億計(オケ)と弘計(ヲケ)(のちの顕宗天皇、仁賢天皇)の物語が記されています。
履中天皇の息子は市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)。そして市辺押磐皇子の子供が志染の石室に隠れ住んだ弘計、億計です。
つまり、履中天皇は二人のお祖父さんにあたります。
二人が父を殺した雄略天皇から逃げるときに、志染の地を選んだのは、お祖父さんの履中天皇が志染にきていて、土地勘?があったからでしょうか。