三木合戦にでてくる淡河城の跡地を訪問しました。
淡河城は神戸市北区にあります。
淡河城は三木の別所氏の味方で、三木城への兵糧を運ぶ拠点になっていたようです。
三木城から約13km離れています。
淡河城の城主は淡河弾正少輔定範。
別所勢で随一の智将とうたわれました。
天正七年(1579)四月、秀吉は淡河城の四方に付城を築き、補給ルートを絶とうとしました。
五月、秀吉は別の補給ルートであった丹生山(淡河城の東方)の明要寺を急襲。全山に火をつけたために明要寺は炎上、落城します。
次に淡河城が攻められることを予想した定範は、城のまわりに撒菱をまき、逆茂木などの防御網を普請をするとともに、牝馬を50〜60頭集めました。
六月、羽柴秀長(秀吉の弟)を総大将とした秀吉軍が500余騎の兵で淡河城に攻めかかります。
そのとき、定範は一斉に牝馬を放ちました。寄せ手の牡馬は牝馬に惑わされ大混乱。
そこへ淡河勢が城から出て攻撃すると、秀吉軍は総崩れになったといいます。
この勝利の後、「次は秀吉の大軍が攻め寄せる。そうなると勝てない」と考えた淡河定範は三木城に入城しました。
淡河城
淡河城のふもとは道の駅「淡河」になっています。道の駅から10分ぐらいで山頂の淡河城まで登れます
道の駅の反対側が正規ルートのようです。こちらには淡河城跡市民公園の看板がありました。
竹慶寺跡に淡河城歴代城主の墓があります。
山頂にある稲荷神社に淡河合戦図が飾られていました。
三木城に入った淡河定範は天正七年9月の平田の合戦で自刃しました。
淡河城を出て3ヶ月後のことでした。
三木市八幡森公園
淡河定範が自刃した場所が三木市八幡森公園にあります。
別所氏を支援の軍糧を三木城に運ぼうとするする毛利勢とそれを防ぐ秀吉軍との間に平田の合戦が起こります。この戦いは三木城包囲戦で最大の戦いだったようです。
激戦した定範は帰城しようとしますが、秀吉軍に包囲されます。
三木城まで約1km。この地で自刃します。
石碑には次のように記されています。
淡河弾正忠定範は三木郡淡河の城主にして三木城主別所長治の義伯父なり
天正六年二月 長治織田信長に抗し三木城に籠る
七年5月織田の軍淡河城を囲む
六月二十七日定範牝馬を敵陣に放ちて遂に快勝す
茲に定範三百余騎を率い三木城に入る
九月十日毛利の軍糧食を三木城に納めんとす
羽柴の兵之を阻み平田大村にて合戦終日に及ぶ
定範東西に馳駆し激戦数合
日傾き僅かに主従五騎帰城せんとしてこの丘に至る
敵兵之を包囲して逼る
定範策を以て敵を屠り
しかる後莞爾として自刃す
ときに行年四十一才なり
惜しい哉