福崎・七種山金剛城寺

福崎町の金剛城寺におまいりしました。
大きな山門です。
仁王様がおられます。力感あふれたお姿で筋骨隆々。腹筋のコブコブが強そうです。

金剛城寺は長い歴史を持つ神社です。
福崎町の説明版によると、金剛城寺創建の物語には七種山、陰陽師・滋岡川人がでてきます。

まずは七種山の由来です。

大昔、 滝の流れる滋岡 (七種の別名)にどこの国の誰かわからない優れた老人(男性)が住みつき、いつも見え隠れしていたので滋岡川人と呼ばれました。ある時、国中で大きな干ばつが何年も続き、五穀 (米・麦・あわきび・豆)の種もなくなり、多くの人が飢え死にました。そんな中、滋岡川人が山を二十余丁下り、穀物の種を人々に分け与えました。種をまくとよく実った ので、人々は喜び滋岡川人を厚く敬いました。穀物の種は、籾、大麦・小麦・大豆・小豆・あわ・ひえの七種であったので、七種山と名付けられたと伝えら れています。

「滋岡川人(しげおかせんにん)と七種山」看板より

滋岡川人は飢えそうになった里人を救ったヒーローでした。
次に金剛城寺の創建です。

推古天皇の頃、高麗の僧・恵灌法師が渡来して、聖徳太子の命によってこの山を登り、長らく修行を続けました。ある時、滋岡川人が突然現れて、恵灌法師に大悲の像を作るよう告げ、恵灌法師は言葉通り十一面観音 を刻みました。この像を本尊に立て、滋岡寺(現在の金剛城寺)としたことから、滋岡川人が大悲観音の化現であると伝えられています。

「滋岡川人(しげおかせんにん)と七種山」看板より

恵灌法師(恵便法師)は高句麗から渡来した僧で、排仏派の物部氏などの迫害から逃れるために播磨に身を隠したとされています。聖徳太子と関係が深く、加古川の鶴林寺の創建に関係しています。

そして、滋岡寺の開山式には法道仙人が招かれたとあります。
法道仙人はインドから雲に乗ってやってきたという仙人で、播磨ではたくさんのお寺を開いています。
金剛城寺の創建には滋岡川人、恵灌法師、法道仙人と強力なメンバーがかかわっていました。

さらに、弘法大師空海が七種山のつなぎ岩で修行をし、滋岡寺はその名を金剛城寺と改めます。

一時、寺は衰微しますが、江戸時代初期、明覚上人によって作門寺と改められ復興します。
七種山へ登る道に元禄時代に建てられた作門寺の山門が残っています。

作門寺の山門

明治に入ると寺は現在地に移転。昭和3年(1928)に金剛城寺の名に戻りました。
作門寺の門がある場所はかなり山奥になるので、今の場所の方がおまいりしやすく便利だと思います。

金剛城寺を訪れたのは紅葉が始まりかけた時期でした。
赤や黄色の紅葉が始まるときれいだと思います。

境内には多くの建物、文化財がありました。
石像地蔵菩薩像には応永6年(1399)の銘があり、福崎町内では最も古い在銘石物だそうです。

鐘楼
石像地蔵菩薩像(応永6年/1399年)

権現堂は古びた石段、紅葉の赤と周りの緑がきれいでした。

護摩堂
権現堂

よいこ地蔵というかわいいお地蔵さまがおられました。
「げんきよく すなおなこころで がんばりましょう」とあります。
本当にそうですね。

よいこ地蔵