牛窓海遊文化館

牛窓港に面して建つ牛窓海遊文化館は明治20年(1887)に建てられた牛窓警察署の建物を利用して、牛窓の文化や朝鮮通信使の資料などを展示しています。
白い壁とピンクのドアが牛窓の雰囲気と調和して、陽気で親しみやすい印象を与えます。

江戸幕府ができた慶長12年(1607)から文化8年(1811)まで12回、朝鮮から通信使がやってきました。
最初の3回(慶長12年、元和3年、寛永元年)は回答兼刷還使として国交の回復、日本に連れ去られた朝鮮人捕虜の返還を目的としていたようです。
第4回目の寛永13年(1636)からは通信使という名前に変わりました。

1607年から1811年までの200年間で13回だけなので、平均して15年おき、大体は将軍就任の祝賀にきていました。将軍が代わるたびに、対馬藩が朝鮮に通信使の派遣を依頼していたことも背景にあります。
第3代将軍・徳川家光のときには3回きていますが、今の貨幣価値で500億円もの費用を負担できたのは、当時の幕府の財力を物語っています。

平均して15年おき、長いときには30年ぶりの来訪となることもあり、通信使の一行を見物しようと多くの観衆が集まったようです。
朝鮮通信使が寄港した港では様々な文化も伝えられました。

牛窓の疫神社の秋祭りでは、朝鮮風の衣装を着て、意味の定かでない歌に合わせて踊る「唐子踊り」という踊りが奉納されます。踊りの起源には、神功皇后に由来するという説、中国起源説、現地創造説などがあるらしいですが、朝鮮通信使の影響があったと思わずにいられません。

祭りでは船型だんじりが登場し、街を練り歩きます。だんじりとはいえ船の形をしているので、海に浮かべるものだと思っていました。

牛窓の真正面に前島があり、その間の海峡を「唐琴の瀬戸」といいます。
海峡の幅は230~400メートルで、大潮の引き潮時には渦ができるほどの流れとなるそうです。この流れの速さから、牛窓は、船の進行に有利な方向に潮が流れるのを待つ「潮待ち」の港とされてきました。

朝鮮通信使だけではなく、ここ牛窓には多くの人が立ち寄っています。

三韓征伐に向かう神功皇后の牛窓伝説。「牛窓」という地名や「唐琴」の名は、この伝説に由来しています。旅と和歌の生涯を送った西行や厳島に詣でた平清盛も牛窓に来ています。

牛窓で詠んだ西行の歌が牛窓灯籠堂跡に掲げられていました。

『さだえすみ せとの岩つぼ もとめいでて いそぎしあまの けしきなるかな』
(岩場に隠れているサザエを採っては、すぐまた潜る海女たちだ)
『いはのねに かたおもむきに なみうきて あはびをかづく あまのむらぎみ』
(岩の根元に向かって体を傾け、海面に並び浮かびながら鮑を採る海女たちよ)

海でサザエやアワビを取る海女たちを詠んだ歌です。牛窓の暮らしが、海と深く結びついてきたことを改めて感じさせられます。