大阪府河南町にある「近つ飛鳥博物館(ちかつあすかはくぶつかん)」を訪問しました。

冒頭にある「近つ」の読み方がわかりません。
なんて読むのかなと思っていたら、近つ飛鳥博物館のパンフレットに説明がありました。
履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるのに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというものです。
近つ飛鳥博物館のパンフレットより
「遠い飛鳥」が現在の奈良県明日香村にあたり、「近つ飛鳥」が博物館周辺ということですが、飛鳥は奈良と考える現代の感覚では逆のようにも感じられます。
これは当時の首都・難波からみた考え方で、博物館の周辺も飛鳥の一部と考えられていたのですね。
博物館の周りは一須賀古墳群で少し北に行くと聖徳太子廟や推古天皇陵などの陵が集まる「王陵の谷」です。難波から飛鳥までの道が通ったこの地域は、古代から交通の要所として栄えていたのでしょう。
入口に近いところに、叡福寺にある聖徳太子廟の横穴式石室を復元した展示があります。石室には3つの棺があり、聖徳太子に加えて、妃の膳郎女(かしわでのいらつめ)と母の穴穂部間人皇后のものとされています。
黒漆で塗られた棺が高貴さを象徴しています。
大展示室には仁徳天皇陵の巨大な模型があります。
古墳を造る人、古墳の周りで生活する人などがジオラマで表されていて、わかりやすい展示となっていました。

訪問したときは「古代人、食べる」という企画展が開催されていました。
「とる」「たべる」「だす」「ささげる」のテーマで数々の資料が展示されています。
なかでも、「だす」の展示では排便のときに使った籌木(ちゅうぎ)という箸のようなものが置かれていました。古代人はこの棒で処理をしていたというのです。
紙が貴重だった時代は、籌木を使っていたということですが、このような道具を使いこなしていたとは、古代人の器用さに驚かされます。今はウォシュレットなので、現代の私たちには、木の棒を使いこなすのは想像しにくいですね。
出口の近くにある「鹿谷寺(ろくたんじ)石塔復元模型」の十三重石塔の周りには、小学生が作った考古学新聞が展示されています。

思い思いに、自由な発想で作られた紙面が、わかりやすくまとめられています。
この新聞を作った小学生の中から、次の考古学者が現れるかもしれませんね。



















