嵯峨釈迦堂清凉寺にお参りしました。
嵐電嵐山駅からまっすぐ北へ進み、JR山陰本線の線路を越えて歩いていくと、やがて清凉寺の大きな山門に行き当たります。周辺は観光客も少なく、嵐山の喧騒を離れた静かで落ち着いた空気が漂っていました。

本堂も堂々とした大きな建物です。
清凉寺は応仁の乱による焼失の後、豊臣秀頼によって再建されますが、寛永14年(1637年)の嵯峨大火で再び焼失しました。現在の本堂は徳川綱吉と生母・桂昌院により再建されたものです。

清凉寺は源氏物語の主人公・光源氏のモデルと言われる源融(みなもととおる)の山荘・棲霞観(せいかかん)から生まれたお寺です。
源融の父・嵯峨天皇は清凉寺の東にある大覚寺の場所に離宮・嵯峨院を建設していました。
境内には源融、嵯峨天皇と皇后の橘嘉智子(たちばなの かちこ、檀林皇后)の供養塔、さらには清凉寺の開山を目指した奝然(ちょうねん)上人のお墓があります。
源融の供養塔

本堂の東にある阿弥陀堂に祀られていた国宝・阿弥陀三尊像は、源融の面影を写したものと伝えられ、非常に端正な顔立ちをしているようです。
源融がハンサムだったからこそ、光源氏を主人公とする『源氏物語』が生まれたのかもしれないですね。

嵯峨天皇、檀林皇后供養塔
嵯峨天皇は第52代天皇(在位809年~825年)で、父は平安遷都を成し遂げた桓武天皇です。空海、橘逸勢とともに三筆の一人に数えられ、華道・嵯峨御流(さがごりゅう)の開祖としても知られます。
檀林皇后・橘嘉智子は絶世の美女で、現在の天龍寺の場所に日本最初の禅寺・檀林寺を創建しました。

奝然上人供養塔
奝然上人は宋に渡り、インド、中国、日本の三国伝来となる釈迦如来立像を携えて帰国。この像を安置するために、「大清凉寺」の建立を目指しましたが、志半ばで没しました。
その後、弟子の盛算(じょうさん)が釈迦如来像を本尊として清凉寺を建立しました(長和5年・1016年)。

昭和28年(1953年)に、釈迦如来像の中に内臓を模した絹製の五臓六腑などが納められていることが発見されました。
「単なる木像ではなく、生きた釈迦の写しとする」信仰心から、こういうことがなされたようです。非常に精巧にできていて、当時の医学的知識の深さを物語る貴重な資料となっています。
春の特別公開では絹製五臓六腑や国宝の阿弥陀三尊像などが公開されます。
次の公開時期には、ぜひ訪れたいと思います。
境内には他にも、小野篁があの世から帰ってくるときに使った井戸跡を示す「生の六道(いきのろくどう)」の碑や、豊臣秀頼の首塚があります。
生の六道碑
かつてこの地には小野篁が建てたと伝えられる福正寺がありました。小野篁は閻魔大王の副官としてあの世で死者の裁判を行っており、東山の六道珍皇寺の井戸からあの世へ行き、福正寺の井戸から現世へ戻ってきたという伝説です。
六道珍皇寺から清凉寺までは直線距離で約10キロ。電車もない時代にこの距離を行き来するのは大変だったのではと想像します。

豊臣秀頼の首塚
昭和55年(1980年)に大坂城で豊臣秀頼の首とされるものが発見されました。その後、昭和58年(1983年)に、豊臣秀頼と縁がある清凉寺に首塚が建立されました。隣には大坂の陣で亡くなった人々を供養する「大坂の陣諸霊供養塔」も建てられています。

清凉寺には様々なエピソードがありました。平安時代に生まれ、浄土宗の拠点として発展した清凉寺は、長い歴史と文化が折り重なった寺だと感じました。



















