湯沢山茶くれん寺

豊臣秀吉が「湯はたくさんあるけれど、お茶をくれない。寺の名前を『湯沢山茶くれん寺』と名付ける!」と冗談を言ったというエピソードが、京都の浄土院と姫路の法輪寺に残されています。

京都の湯沢山茶くれん寺・浄土院

門の横にある説明板には次のエピソードが書かれていました。

豊臣秀吉が天正十五年(一五八七)に開いた北野の大茶会の途中に立ち寄り、庵主に茶を所望したところ、二杯目も所望されたため、庵主は自分の未熟なお茶を出し続けるのは失礼と考え、この寺に湧き出る銀水の白湯を出し続けた。秀吉は庵主の思いを悟り、「お茶を頼んでいるのに白湯ばかりだし、お茶をくれん」と笑ったといわれており、その後「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになったと伝えられている。

門の横にある説明板より

浄土院は平安時代に創建されたという歴史のあるお寺でした。

「湯たく山茶くれん寺」というユニークなあだ名を持つ浄土院は、「通称寺の会」に入っています。「通称寺の会」は京都にある通称で親しまれる寺が参加している会で、約40の寺が参加されています。参加寺院のリストを見ると、いろいろなあだ名、呼び名があって面白いです。

続いて姫路の湯たく山茶くれん寺です。姫路では湯沢山と漢字で表します。

姫路の湯沢山茶くれん寺・法輪寺

寺の前にある説明板にエピソードが記されていました。

秀吉公、英賀城攻めの時、町ノ坪の宝林寺(法輪寺)では、兼て秀吉公、御立寄なさるべしと、鐘子(かねこ/茶釜)に茶をたぎらせて雑兵に手をつけさせぬよう、罐子(かんす)の環に蓋をくくりつけおきける。その時、秀吉公軽々しき平侍の体にて御立寄、茶の所望あり、住僧はじめ秀吉公と存ぜずして白湯を差上げければ、この鏟子の茶を呑ますべしと仰せられける。庄屋まかり出で、此茶はもし秀吉公御立寄もあらば、差上げ申さんとこのようにいたしおき候、そのもと様には進ぜがたしと申す。秀吉公打笑い、我こそ秀吉也と仰せければ、庄屋仰天して、さては左様に御座候かと早速お茶を差上ぐ。
 それにつき秀吉公、戯れて湯沢山茶くれん寺という寺号を遺すべしと仰せられける。またこのときあわせて九石九斗九升九合の御朱印を賜わりけると云々。

寺の前にある説明板より

平侍に間違われて白湯を飲まされた秀吉は、正体を表してお茶を飲むことができました。
「お前なんかに、お茶は飲ませられない」と言った庄屋はびっくりしたことでしょう。

腹を立ててもおかしくない状況にもかかわらず、「湯沢山茶くれん寺」と冗談を言って、お朱印を渡した秀吉。この頃の秀吉は楽しい男だったことが伺えます。

境内には、秀吉公が座ったという腰掛岩(2013年に再現)や秀吉公の御来訪を記念して当時の住職が植えたというカヤの木が生えていました。

どちらの「湯沢山茶くれん寺」にも、秀吉がお茶を飲みたいのに白湯を飲まされたという共通のストーリーがあります。しかし、状況は大きく異なります。

姫路の法輪寺でのエピソードは、秀吉公がまだ織田信長の部下として英賀城を攻めていた天正8年(1580)の話です。このとき秀吉公は住職や庄屋から平侍と間違われました。一方、京都の浄土院でのエピソードは、秀吉公が関白となり、北野で大茶会を開いた天正15年(1587)の話です。このとき、浄土院の庵主は秀吉公を恐れ多い相手とみなしていました。

天正8年から天正15年までの7年間で、秀吉公の立場が大きく変わっていたことがわかります。

それにしても「湯沢山茶くれん寺」というネーミングは、ユーモアにあふれ、うまく言ったものだと思います。
姫路の法輪寺で名付けた「湯沢山茶くれん寺」を、秀吉は自分でも気に入っていて、京都でも同じことを言ったのかなと想像しました。