姫路の北部、菅生ダムの近くにある補陀落寺を訪問しました。
補陀落寺は書写山円教寺を創建した性空上人が、天禄2年(971)に開基した天台宗の寺です。
円教寺の創建は天禄元年(970)なので、その1年後に開基ということになります。性空上人は延喜10年(910)の生まれともいわれているので、この頃は60歳。当時の60歳なので、かなりの老人だったと考えられますが、すごく活発に活動されていたようです。
寺は文明4年(1472)に兵火にかかり焼失。このとき御本尊の十一面観音菩薩像、阿弥陀如来像は焼失をまぬがれたといいます。
その後、享保2年(1717)に快翁和尚が中興し、現在に至っています。
県道411号線を菅生ダムに向かって北上していくと、補陀落寺への登山道が現れます。
もう少し走ると、車でも登っていける道があったのですが、サイクリングできていることもあって、ここから登りました。
登山道の脇には石仏が並んでいます。道はきれいに整備されているというわけではないですが、歩くには困りません。途中からは車で登ってこられる車道と合流します。
水尾山一帯は県の自然環境保全地区に指定されているということで、自然でいっぱいです。
しばらく歩くと、建物が見えてきます。
補陀落寺の由来を示す看板の裏に三尊像の石像がありました。
更に登っていくと、小さな祠が現れます。
補陀落寺には、平家の武将・平教経が一の谷の合戦後、補陀落寺に逃げてきたという伝説があります。
平教経は能登守でした。伝説では、
「補陀落寺の庫裏の前に教経の住居がつくられ、能登殿屋敷と呼ばれるようになった」
「この祠にまつられているお地蔵様は北陸特有の帽子をかぶった被帽地蔵で、教経の家来が北陸から持ってきた」
といいます。
平家物語では、平教経は平家随一の猛将で、壇ノ浦の戦いの最期に源氏の武者二人を脇に抱えて「お前ら、死出の山のお供をせよ」と言って、海の中に飛び込んだとされています。
しかし、鎌倉幕府の公式文書である吾妻鏡では、教経は一の谷の合戦でう安田義定の軍に討たれたとあり、平家物語とは異なる話になっています。
平家物語は軍記物で、フィクションが入っていますが、吾妻鏡はノンフィクションのはず。その吾妻鏡に少し間違いがあり、教経が補陀落寺に逃げてきたという可能性がまったくないわけではないかもしれません。
祠を過ぎて、さらに登っていくと観音堂に出ます。
観音堂の建築年代は桃山時代のものと考えられています。
中には性空上人の作と伝えられる御本尊の十一面観音像が安置されているそうです。
また、庫裏に安置されている弥陀三尊像は性空上人の護持仏で、聖徳太子の作と伝えられています。
性空上人や聖徳太子がどういう仏様を造られたのか、見る機会があればと思います。
1300年前に創建された補陀落寺は数々のエピソードを持ったお寺でした。