男山周辺

姫路城の北にある男山には水尾神社、千姫天満宮、男山八幡宮、それに貯水池公園があります。高さは56m。
播磨風土記にでてくる伊和の里14丘のうち、箱丘に比定されています。

水尾神社

水尾神社は男山の麓に鎮座されています。
水尾神社は「みおじんじゃ」と読みます。

水尾神社の御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。
御神徳は創業、開業、病気平癒、国造り(政治)です。

千姫天満宮

男山の頂上に向かう途中に千姫天満宮があります。
千姫は天満大自在天神(菅原道真)を信仰しており、元和九年(1623)千姫によって建てられました。 
慶長2年(1597)、千姫は徳川二代将軍秀忠とお江(淀君の妹)の間に生まれました。
慶長8年(1603)、七歳で豊臣秀頼に嫁ぎます。
しかし、慶長二十年(1615)の大阪夏の陣で大阪城が落城。豊臣秀頼は自刃します。
元和2年(1616)、本多忠刻と結婚。
元和3年(1617)、本多家が姫路に国替えとなったため、姫路に移りました。
寛永3年(1623)、夫・本多忠刻が死去。江戸に移り、出家します。
寛文6年(1666)に亡くなります。

姫路城は千姫の化粧料十万石で西の丸、化粧櫓が築かれ、白鷺城と呼ばれる城となりました。

千姫は朝夕、西の丸長局から天満宮を遥拝したとされます。
本多忠刻と千姫の連歌が残っています。
 忠刻  初秋の 風を簾に まきとりて
 千姫  軒はにおほふ 竹の葉の露
二人は幸せだったようです。

船場川沿いにある千姫の像

男山八幡宮

男山のふもとにある石鳥居は男山八幡宮の鳥居です。延宝7年(1679)に姫路藩主松平直矩が寄進したものです。
直矩は3年後の天和2年(1682)、豊後日田へ国替えとなりました。

松平直矩寄進の鳥居

松平直矩は出羽山形藩の生まれ。父の松平直基が播磨姫路に転封になったので姫路に来ました。ところが、父直基は姫路に来る途中で死去。5歳の直矩が家督を継ぎますが、「5歳の子供に姫路は任せられない」となり、越後村上藩に転封。
成人後、姫路藩主となりますが、親族のお家騒動に巻き込まれ、豊後日田藩に転封。
その後、出羽山形藩、陸奥白河藩と転封が続き、「引越し大名」と呼ばれました。

男山八幡宮へは千姫天満宮から、さらに階段を上がっていきます。

神社の前に石鳥居があります。姫路藩主榊原政邦が正徳六年(1716)に寄進したものです。左の柱に武運長久と家の繁栄を願う文が刻まれています。

榊原政邦寄進の鳥居
武運長久と家の繁栄を願う文

男山八幡宮は貞和元年(1345)京都の男山石清水八幡宮より勧請されました。
御祭神は誉田別命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、姫大神(多岐津比売尊、市杵島姫尊、多紀理姫尊)。 
姫路城の姫山に対し夫婦山である男山に鎮座され、歴代城主から庶民まで「男山厄神さん」と親しまれています。

榊原政邦は鳥居だけではなく、姫路城の守護神として新社殿も寄進しています。

貯水池公園

男山の頂上は貯水池公園になっています。

頂上の貯水場まで直行する階段があり、トレーニングで走って登る人もいます。
姫路城の周りの高校の部活動では、みんなこの階段を登ったと思います。
段数は198段。かなりタフです。

男山頂上から間近に姫路城が見えます。
ここから見る初日の出は、姫路城天守付近から日が昇り、絶景ということです。