姫路城に近い標高51mの景福寺山。
低い山ですが、歴史に登場する山です。
古くは、「播磨国風土記」の十四丘伝説の一つ、「船丘」と推定されています。
新しいところでは、慶応4年(1868)1月16日、景福寺山から姫路城に砲撃が行われました。
また、山は墓地になっており、たくさんの墓が並んでいます。寛保、延享年間(1741〜1748)に姫路藩主だった松平明矩公の墓もあります。
山のふもとにある瑞松山景福寺は曹洞宗の寺で、藩主酒井家の菩提寺です。姫路藩主正室の五輪塔が建てられています。
今回は景福寺から景福寺山へ登っていきました。
景福寺
景福寺は姫路だけではなく、猪名川町、鳥取、岡山にもあるそうです。
姫路景福寺の歴史
応安2年(1369)摂津多田荘六瀬(現猪名川町)に開創。
天正年間に兵火を避けて播磨阿閇(現播磨町)に移る。
慶長5年(1600)、姫路坂田町に移転。
寛延2年(1749)、松平家にかわり酒井家が入封。景福寺を現在地に移し、菩提寺とした。
姫路藩主が池田輝政校のときに姫路に来た景福寺。その後、池田氏が岡山、鳥取に転封となったため、六瀬、姫路、岡山、鳥取の4箇所に景福寺があり四景福というそうです。
山門は立派な仁王門です。建築されたのは鬼瓦の銘から享保17年(1732)と考えられています。
仁王像は鎌倉時代の作ということです。
境内は広々として大きな本堂や明和4年(1767)以前に建築されたと考えられる坐禅堂があります。坐禅堂では現在も坐禅会に使われています。
山門の横手には大きな五輪塔と墓が並んでいます。これらは酒井家藩主の正室と子どもたちのものでした。
景福寺山
景福寺山は高さ51mの低い山ですが、山全体に姫路藩士などの墓が建てられています。
これを管理するのはたいへんだと思います。
登山道を登って山の東端に出ると姫路城が見えます。ここが、慶応4年(1868)に備前藩の兵士が姫路城に向けて砲撃を行った場所でした
山頂の道を奥に進むと姫路藩主・松平明矩公の墓に到着します。
墓は荒れ果てていて、墓を囲む土塀などは倒れてしまっています。
松平明矩公は寛保元年(1741)姫路に入封するが、経済政策に失敗。
明矩公は寛延元年(1749)に亡くなりますが、姫路藩内では江戸時代最大の寛延大一揆が起こります。松平家の政治に大きな不満が渦巻いていました。
もし、庶民に慕われていたなら、墓ももっときれいな形で残っていたのではと思いました。