姫路大一揆・義民 滑甚兵衛

姫路の奥屋敷  塩田温泉の近くに置塩神社があります。置塩神社には江戸時代の農民、滑の甚兵衛、塩田の利兵衛、又坂の与次右衛門が祀られています。
彼らは姫路藩の悪政に立ち上がった義民でした。

姫路藩で一揆が起こったのは寛延二年。
姫路藩で起こった唯一の一揆です。
一揆に加わった農民は一万人を超え、一揆が収束するまで2ヶ月かかるという大一揆でした。

この一揆において、滑甚兵衛をリーダーとして利兵衛、与次右衛門の3名は前之庄地区の一揆を主導しました。

置塩神社
滑甚兵衛、利兵衛、与次右衛門の額

松平大和守家

一揆が発生したときの姫路藩主は松平大和守家です。
松平大和守家は姫路藩主に3回なっています。


 
慶安元年(1648)
 
 松平直基が藩主になるが姫路に来ないまま死去。
 嫡子松平直矩は5歳だったため慶安元年のうちに転封。

 
寛文七年〜天和二年
  (1667〜1682)
 松平直矩が再び姫路藩主になる。
 越後騒動に巻き込まれ豊後日田へ転封。

 
 
寛保元年〜寛延元年
  (1741〜1748)
 
 松平明矩が奥州白河から姫路に入府。
 明矩は寛延元年に病死。
 嫡子朝矩は年が若いということで前橋へ転封。

 
寛延二年(1749〜)
 
 一揆発生。
 酒井家が姫路藩に入府する。

松平家は天和二年に姫路から豊後日田に国替えになったあと、出羽山形藩、陸奥白河藩と国替えしていきます(この国替えが映画「引っ越し大名」になりました)。
姫路から日田に国替えされたときは石高が15万石から7万石に減封されました。
山形では10万石になり、白河に移ったときに15万石に戻りましたが、実収は15万石に満たなかったようです。
また、国替えは藩士全員が引越しするので莫大な費用がかかり、財政的に大きな負担になりました。
白河で松平家は財政再建に取り組みましたが失敗に終わります。
享保四年(1719)には大一揆が起こります。
姫路に移る直前の寛保二年(1741)には姫路への引っ越しの費用負担に対して一揆が起こりました。

一揆の原因

姫路に来てからも松平家は財政難に苦しみます。
高間伝兵衛、山口庄左衛門、好田主水、小笠原監物といった人たちが財政担当になりますが、成功しませんでした。

一揆が発生した要因として以下のことが考えられています。

  • 松平家の財政の失敗による家中が混乱していた。
  • 財政建て直しのために年貢徴収が強化された。
  • 台風被害が相次ぎ農民の蓄えがなくなっていた。
  • 寛延元年も台風に見舞われて大被害を受けたが年貢は減免されなかった。
  • 朝鮮通信使の応接のための2万両の御用金の上納を命じられた。
  • 藩主 明矩が死去。嫡子喜八郎は年若で国替えは確実となり、御用金を徴収される恐れが出た。
  • 御用金の徴収が大庄屋まかせで、大庄屋のやり方に不満が溜まっていた。

『城主たちの事件簿』播磨学編集書編より

藩主松平明矩の藩運営の失敗が一揆を招いたと考えられます。
松平家は国替えを繰り返したため、お金がなかった。それなのに、松平家は格式が高いため多くの費用が必要だった。明矩は病気がちで藩政をしっかり見ることができなかった、というかわいそう面もありますが、藩を運営する能力が不足し、能力のある人や組織を作ることができなかったと言えます。

景福寺山の松平明矩の墓所

一揆の発生

不満が溜まっていた農民たちは藩主明矩の死去、松平家の国替えというタイミングで蜂起します

寛延元年
 
 
12月21日
 
 
市川河原へ農民が集結。
年貢の延期と藩の手先になっている大庄屋、米屋の引き渡しを要求。
姫路藩、要求を無視し14名の農民を捕らえる。
寛延二年1月16日加古郡西条組の大庄屋沼田平九郎宅を打ちこわし
 1月22日飯田組今宿から手柄方面へ。3庄屋打ちこわし
 1月28日
 
夢前川流域の前之庄組大庄屋北八兵衛宅打ちこわし
北八兵衛の帳簿を押収。帳簿を分析して不正の調査する。
 1月29日市川流域の犬飼組等の庄屋打ちこわし
 2月1日市川中・下流域の大庄屋、城下の御用商人の米屋等打ちこわし
  同日南部海岸線に。魚崎、的形、宇佐崎の塩商人宅等襲う
 2月2日松原から飾磨、英賀の海岸線へ広がる。未統制暴動的に
 2月3日砂部、高砂、滝野等散発的に連動


西条組大庄屋沼田平九郎宅を打ちこわすときには、「公儀の威を借りてこの役を鼻にかけ物事子細らしくかりそめのことにも船持ちをしかり問屋を決めつけ、怒りをなし村方の百姓を痛め帆別運上を取込み、人を人とも思わずけし程の間違いあれば問屋をさせず商売をおしとめなどして非義をなすこと限りなし」とその非道を指弾しています。

大庄屋のそれまでの行いに対して、不満が積み重なっていたのです。

滑甚兵衛

前之庄での一揆は大庄屋北八兵衛宅を打ちこわしただけではなく、北八兵衛が付けていた帳簿を押収。甚兵衛の家(なめら会所)で帳簿を分析し不正を暴こうという活動をしました。
さらに、大庄屋がなくなったので、藩からの指示、伝達などをなめら会所で受けようという話がなされていたようです。
これは今の自治会活動に通じる動きという指摘がなされています。

一揆後、転封になる松平家に代わって大阪町奉行所による取り調べが行われます。
一年半におよぶ厳しい取り調べの結果、345人が検挙され、磔、獄門、死罪(打首)、遠島などの厳しい刑を受けました。

前之庄一揆のリーダーであった滑甚兵衛は磔の刑を受けます。
磔になったのは滑甚兵衛と加古郡西条組の伊左衛門の二人です。

伊左衛門は大阪の牢屋で病死していましたが、死体は塩漬けにされ、姫路に運ばれ市川河原へで磔にされました。
甚兵衛も寛延3年9月23日に市川河原で磔になりました。
前之庄で甚兵衛と行動をともにした塩田の利兵衛、又坂の与次右衛門は獄門の刑を受けました。

置塩神社

置塩神社は昭和29年に創建されました。
甚兵衛が処刑された9月23日はお祭り供養が行われているそうです。

神社に登る階段の両脇に燈籠が並び、その一つ一つに義民への思い、感謝が記されています。

神社へ登る石段
感謝の言葉が書かれた燈籠
置塩神社

神社自体は小さいですが、石段脇の燈籠に書かれた言葉が、そのすばらしさを語っていると思います。

神社の近くに滑甚兵衛、利兵衛の碑が建てられています。

滑甚兵衛の碑

磔にされた甚兵衛の遺体は家族に返されず、法要もできませんでした。
33年後の安永十年(1781)にようやく供養碑が建てられました

利兵衛の碑

利兵衛の碑は置塩神社の麓にあります。

二人の碑はどちらも小さく、派手な装飾もありません。
それがかえって、二人への感謝を表しているような感じがしました。
播州は豊かな地域で江戸時代は戦もなく平和だったという思い込みがありましたが、こういう事件、人がいたことを知りました。

以下の文献を参考にさせていただきました。
・『城主たちの事件簿』 播磨額研究所編
・『寛延二年姫路藩百姓一揆と滑甚兵衛』 島田清
・『播姫太平記を読む』 高砂古文書の会