後期赤松家 3代目 赤松晴政の墓が松安寺跡にあります。
赤松晴政自身の人生は戦いに次ぐ戦いで、うまくいきませんでした。
墓地の松安寺も今は廃寺で、荒れ果てています。
なにか物悲しい思いをしました。
赤松氏の衰退
赤松家の勃興と滅亡
室町初期に赤松円心が足利尊氏を助けるなど大活躍し、赤松家は播磨、備前、美作を治め、四職を任じられる有力守護大名に成り上がりました。しかし、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱により赤松宗家は滅び、山名宗全が播磨の守護となります。
赤松家の復活
その16年後、赤松氏の遺臣が後南朝に奪われていた三種の神器の神璽を取り返し(長禄の変:長禄元年/1457年)、その功により赤松家再興が認められ、赤松政則に加賀半国が与えられます。
応仁の乱(1467〜1477)では東軍 細川勝元に味方し、播磨、備前、美作の山名軍を駆逐し旧領を取り戻します。
ここから、後期赤松家が始まります。
赤松晴政と義祐の時代
赤松晴政は後期赤松家 2代目 赤松義村の後を継ぎます。
享禄4年(1531年)細川高国、浦上村宗と戦い、父の仇であった村宗を討ちます(大物崩れ)。
天文7年(1538)、山名氏と組んだ出雲の尼子晴久が播磨に侵攻、晴政は淡路に逃れます。
天文9年(1540)に尼子晴久は播磨から撤退。しかし、天文21年(1552)尼子晴久が備前・美作の守護職に任ぜられたため、晴政に残るのは播磨だけとなりました。
永禄元年(1558)、嫡子・義祐が小寺政職と組んで晴政は追放され、娘婿の龍野城 赤松政秀に身を寄せます。
晴政は永禄8年(1565)に死去しました。
義祐が4代目の座につきます。
龍野の赤松政秀との抗争が続きます。
この抗争のなかで様々な事件が起こります。
- 浦上清宗と黒田官兵衛の妹との結婚式を赤松政秀が襲撃(永禄7年/1564)
- 黒田官兵衛が初陣で赤松政秀を破る(青山の戦い 永禄12年/1569年)
- 織田家の播磨介入。
元亀元年(1570)赤松政秀は浦上宗景に龍野城を奪われ、その翌年に暗殺されます。
義祐は子の則房に家督を譲り、その6年後、天正4年(1576)に義祐は死去します。
晴政、義祐の代は赤松家没落の歴史です。下剋上の世界でぐちゃぐちゃです。時代が中世から近世へ移り変わっていきました。
たいへんな時代だったと思います。
松安寺跡
二人を供養する五輪塔が姫路市置塩の松安寺跡に残っています。
松安寺は義祐が赤松家の菩提寺として建立したとされています。昭和50年頃に倒壊して、建物の土台は残っていますが廃墟のようです。
奥に進んでいきます。案内する看板などはありません。
廃墟のようなところをしばらく歩きます。どこまで行くのか不安になってきたところで晴政、その妻そして義祐の五輪塔が現れました。
この廃墟のような雰囲気に慣れてくると、松安寺はすごく大きいお寺だったことがわかりました。
赤松氏が戦国時代を生き残って、置塩に陣屋などを建てていたら、松安寺も残っていた可能性はあったでしょうか。