赤松政則最期の地・長円寺
明応5年(1496)鷹狩りにでかけていた赤松政則公は、急に病状が悪化し、坂田庄(加西市)の長円寺で亡くなります。42歳でした。 赤松政則公は波乱万丈の人生を歩みました。 嘉吉元年(1441)嘉吉の乱で赤松満祐は城山城で自...
明応5年(1496)鷹狩りにでかけていた赤松政則公は、急に病状が悪化し、坂田庄(加西市)の長円寺で亡くなります。42歳でした。 赤松政則公は波乱万丈の人生を歩みました。 嘉吉元年(1441)嘉吉の乱で赤松満祐は城山城で自...
たつの市中垣内に鎮座なさっている井関三神社の由緒はものすごく古い。神社のパンフレットには次のように記されています。 崇神天皇2年(紀元前96!)天照大神のお告げによる崇神天皇の詔により四道将軍の丹波道主命が天照國照彦火明...
赤松氏が本拠地にしたという坂本城跡が書写山のふもとにあります。残念ですが、城跡とわかるものは残っておらず、土塁跡が残っているだけです。 城は東西170m、南北170mの大きさがあり、平城です。書写山円教寺が近くにあるため...
尼崎市大物にある大物くずれの跡地を訪問しました。 享禄4年(1531)、細川晴元と細川高国の管領家同士の戦いが始まりました。播磨からは赤松晴政、浦上村宗が細川高国の勢力に加わります。 赤松晴政は赤松義村の息子です。父の義...
後期赤松家 3代目 赤松晴政の墓が松安寺跡にあります。赤松晴政自身の人生は戦いに次ぐ戦いで、うまくいきませんでした。墓地の松安寺も今は廃寺で、荒れ果てています。なにか物悲しい思いをしました。 赤松氏の衰退 赤松...
国道372号線を走っていると、「板碑」、「石像宝篋印塔」、「南帝御首塚」という看板を見つけました。清慶寺というお寺でした。興味が湧いたので見学させていただきました。 板碑 家形石棺の蓋に阿弥陀三尊の種子、宝珠が刻まれてい...
室町幕府第六代将軍・義教の首塚がある加東市の安国寺を訪問しました。 足利尊氏、直義の発願により南北朝の戦没者供養のために全国の国ごとに安国寺と利生塔が建立されました。この安国寺もその一つです。 延元四年/暦応二年(133...
嘉吉の乱で将軍 足利義教を殺した赤松満祐は、義教の首級を持って河合城(別名 堀殿城)へ入城しました。 河合城は赤松氏の東播磨の拠点として築城されたそうです。東西約四百メートル、南北約三百メートルと城の規模は大きく、三つの...
置塩城は室町時代に播磨守護職であった赤松氏のお城です。姫路城から約12km北の置塩山山頂に築かれました。羽柴秀吉によって播州が平定されるまでは、姫路城より重要なお城でした。 非常に天気の良い日で、姫路から気持ちの良いサイ...